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松本サリン事件

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松本サリン事件
場所 長野県松本市北深志の住宅街
日付 1994年6月27日 - 6月28日
攻撃手段 化学テロ
兵器 サリン
死亡者 8人
負傷者 重軽傷者660人
犯人 麻原彰晃率いるオウム真理教徒ら
村井秀夫新実智光端本悟中村昇
中川智正富田隆遠藤誠一
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松本サリン事件(まつもとサリンじけん)は、1994年長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者8人・重軽傷者660人を出した事件。戦争状態にない国で一般市民に対して初めて化学兵器が使用されたテロ事件として知られる。また、無実の人間が犯人扱いをされた冤罪[1]報道被害事件としても知られている。

概要

松本サリン事件は、1994年6月27日の夕方から翌日6月28日の早朝にかけて、長野県松本市北深志の住宅街で起こったテロ事件である。なお、公式情報の発生時刻よりも2時間ほど前に発症者が出ているという指摘もある。住宅街に化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、7人が死亡、660人が負傷した。事件から14年後の2008年8月5日、第一通報者の妻が死亡したため死者は8人となる。

松本サリン事件の背景には、オウム真理教松本支部の立ち退きを周辺住民が求めていた裁判におけるオウム真理教側の敗訴の公算が高まったことがある。オウム真理教の教祖松本智津夫は、この状況を打開するために、同教団信者である村井秀夫新実智光端本悟中村昇中川智正富田隆遠藤誠一等に、裁判を担当する判事の殺害を指示した。これを受け、同信者等は長野地方裁判所松本支部官舎に隣接する住宅街にサリンを散布した。

事件発生直後は使用された物質が判明せず、新聞紙上には「松本でナゾの毒ガス7人死亡」という見出しが躍った。

6月28日、警察は第一通報者であった河野義行宅の家宅捜索を行ない、薬品類など数点を押収した。さらに河野には重要参考人としてその後連日にわたる取り調べが行われた。また、マスコミによる報道が過熱の一途を辿る。

ガスクロマトグラフィー/質量分析計(GC/MS)分析により、散布された物質がサリンであると判明したのは7月3日のことであった。

その後9月頃になって『松本サリン事件に関する一考察』という怪文書が、マスコミや警察関係者を中心に出回っていく。この文書は冒頭で「サリン事件は、オウム真理教である」と言及するなど、一連の犯行がオウム真理教の犯行であることを示唆したものであった。

1995年3月に地下鉄サリン事件が発生し、程なく目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件でオウム真理教に対する強制捜査が実施された。その過程でオウム真理教幹部は、松本サリン事件がオウム真理教の犯行であることを自供した。

冤罪・報道被害

この事件は、警察のずさんな捜査[2][3]や、一方的な取調べ、さらにそれら警察の発表を踏まえた偏見的な報道により、無実の人間が公然と半ば犯人として扱われてしまった冤罪事件・報道被害事件としても知られている。

事件の「サリン被害者」・「第一通報者」・「冤罪被害者」・「報道被害者」の河野義行については河野義行を参照。

経緯

当初、長野県警察は、サリン被害者でもある第一通報者の河野義行を重要参考人とし、6月28日に家宅捜索を行い薬品類など数点を押収。その後も連日にわたる取り調べを行った。この際当時松本簡易裁判所所属であった判事松丸伸一郎が捜査令状を発行しているが、本来過失罪で請求するところを手違いにより殺人未遂として発行していた。

また、マスコミは、一部の専門家が「農薬からサリンを合成することなど不可能」と指摘していたにもかかわらず、オウム真理教が真犯人であると判明するまでの半年以上もの間警察発表を無批判に垂れ流したり、河野が救急隊員に「除草剤をつくろうとして調合に失敗して煙を出した」と話したとする警察からのリークに基づく虚報情報を流すなど、あたかも河野が真犯人であるかのように印象付ける報道を続けた[4]

  • また、サリン=農薬とする誤解は現在に至っても根強く、農薬の安全性が不当に貶められる状況を作り出す事件にもなった[5]。その後も、あたかも農薬を混ぜることによって、いとも簡単にサリンを発生できるが如き発言が続いた。この発言は、農薬からサリンを生成できるという認識を植え付け、冤罪報道の拡大にも繋がった[6]
  • この論調は、特に地元有力地方紙である信濃毎日新聞により伝えられた。
  • マスコミの中で特に悪質だったのが週刊新潮で、『毒ガス事件発生源の怪奇家系図』という見出しの記事で河野家の家系図を掲載してプライバシーを侵害した。地下鉄サリン事件後も河野は週刊新潮のみ刑事告訴を検討していたが、謝罪文掲載の約束により取り下げた。しかし河野との約束は現在もなお守られていない。現在も河野は「週刊新潮だけは最後まで謝罪すらしなかった」と語っている。

後にオウム真理教が真犯人であると判明し、河野の無実・潔白が証明された。また、後年に河野は書籍中で報道被害の実態を語った。

なお、河野の妻はサリンによる被害を受け、事件から14年目の2008年8月5日に入院先の松本協立病院にて事件以来意識を回復させることなく死去した。死因はサリン中毒による低酸素脳症が原因の呼吸不全である。彼女は既に6月時点で余命3ヶ月を言い渡されており、危篤の連絡を受けた河野の見守る中、静かに息を引き取ったとされる。これにより、事件の死者は8人となった。

河野への謝罪

当時の国家公安委員長野中広務は直接謝罪に訪れている。

地元の長野県警は「遺憾」の意を表明したのみで「謝罪というものではない」[7]と捜査の間違いを認めず直接謝罪もなかった。

しかし、後の2002年に長野県公安委員に就任した河野へ長野県警本部長がかつての捜査について謝罪せざるを得なくなり、初めての謝罪をした。

一方、マスコミ各社は誌面上での訂正記事や謝罪文が相次いで載せられたが、河野への直接謝罪は皆無である。また前述の週刊新潮の謝罪は今もってない。

なお、報道各社の社員個々人による謝罪の手紙は河野のもとに多数届いたとはいう。

オウム側はアーレフへ再編後の2000年に直接謝罪した。

河野の県公安委員就任

その後、河野義行は当時の長野県知事田中康夫によって捜査機関において事件の教訓を生かすために長野県警を監督する長野県公安委員に任命された。

しかし、後に生坂ダム殺人事件の長野県警の捜査ミス糾弾[8]において、田中知事の意に沿ぐわなかった[9]ため、河野は事実上の更迭をされた。

関連書籍・映画

  1. ^ ただし逮捕・起訴はされていないので、厳密には冤罪には該当しない。
  2. ^ 長野県警には事件発生直後「不審なトラック」の目撃情報を黙殺したとされる。
  3. ^ 事件発生直後、捜査員の一人の「裁判所官舎を狙ったものでは?」との推測も聞き入れられなかったと言われている。
  4. ^ 警察側も河野宅から押収した農薬からはサリン合成が不可能であることを認識していたものの、捜査ミスを認めることへの恐れから表立った捜査方針の転換が遅れることとなった
  5. ^ 松本サリン事件発生初期、神奈川大学経営学部教授常石敬一の「有機リン系の農薬を原因とする、神経ガスが発生した」という発言が発端
  6. ^ この時に使用されたサリンは他の薬品と調合していたため臭気があったが実際のサリンは無色無臭
  7. ^ 1995年6月の会見にて
  8. ^ 他殺死体を自殺事件と断定したが、後に覚せい剤所持等の別件で逮捕された犯人の任意の自白により殺人事件と判明
  9. ^ 当然田中は冤罪被害者の河野に長野県警糾弾の先鋒を希望したのだが、公安委員の河野は私情を挿まず、当時の捜査において他殺と断定できなかった事はやむを得なかったとの冷静な判断をした

外部リンク