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前田利興

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時代 江戸時代中期
生誕 延宝6年5月27日1678年7月15日
死没 享保18年5月19日1733年6月30日
別名 万徳丸(幼名)、主膳(別名)
戒名 安詳院殿青山日高大居士
墓所 富山県富山市長岡の長岡御廟
越中富山藩主
官位 従四位下、長門
氏族 加賀前田氏
父母 父:前田正甫、母:須磨(加藤氏)
兄弟 主税、前田利興、帯子、采女、
前田利由、蘭子、逸子、前田利隆、空眠、
家子(酒井忠篤室のち酒井忠英室)、満子、
前田利郷、為子(前田利理室)、前田利寛
正室:前田利直の娘・富紀
側室:木村氏
亀千代、養子:前田利隆

前田 利興(まえだ としおき)は、越中富山藩の第3代藩主

延宝6年(1678年)5月27日、第2代藩主・前田正甫の次男として富山で誕生する。宝永3年(1706年)に父が死去したため、家督を継承して第3代富山藩主となる。藩主となってから財政再建を主とした藩政改革に着手し、60名の藩士リストラ年貢連帯責任制の強化、奢侈禁止令の実施、タバコ醤油などの流通統制などを行なったが、正徳3年(1713年)の増上寺の手伝い普請をはじめ、正徳4年(1714年)の富山城本丸の焼失、享保8年(1723年)の富山城石垣普請などの出費で1万7000石の借財を作るなどしたことから、効果は無かった。

享保9年(1724年)に、土蔵に籠居するなどの行動をとったため藩内が動揺し、隠居のうえ家督を養子(実弟)の前田利隆に譲ることとなった。享保18年(1733年)5月19日に死去。享年56。

富山の名産として知られる鱒寿司は、利興が家臣の吉村新八から献上されたものを、第8代将軍・徳川吉宗に献上したのが起源であると伝承されている。