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吉田兼見

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吉田 兼見
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文4年(1535年
死没 慶長15年8月20日1610年10月6日
改名 吉田兼和 → 吉田兼見(1586年改名)
別名 豊神霊神
官位 従二位 神祇大副左兵衛督
主君 後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇
氏族 吉田家卜部氏嫡流
父母 父:吉田兼右、母:素性不詳
兄弟 兼見神龍院梵舜
素性不詳
兼治萩原兼従萩原家始祖)
特記
事項
堂上家家格半家)に列す。
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吉田 兼見(よしだ かねみ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての神道家。京都吉田神社神主で、吉田神道宗家吉田家9代当主(卜部氏25代)。子に吉田兼治、孫で猶子萩原兼従。『兼見卿記』(かねみきょうき)の著者としても知られる。

生涯

天文4年(1535年)、神祇大副右兵衛督吉田兼右の子として誕生。細川幽斎の従兄弟にあたる。

元亀元年(1570年)、家督を継ぎ吉田神道の継承者となった。初名は兼和であったが、後陽成天皇の諱(和仁)を避けて天正14年(1586年)に兼見に改名した。官途は、従二位神祇大副左衛門督。また足利義昭織田信長明智光秀豊臣秀吉、細川幽斎などと交友関係は広く、信長の推挙により堂上家(家格は半家卜部氏)の家格を獲得した。

慶長15年(1610年)、薨去

人物・評価

  • 元亀4年足利義昭への威嚇のため、信長が上京焼き討ちをする前に庶民から悪い噂が市中に流れる事を恐れ、4月1日信忠の陣見舞いに知恩院に行った時、信長に呼び出され朝廷や庶民の将軍義昭の評判を尋ねられて、「天皇や公家や庶民にも評判が悪い」と答えて満足されている[1]
  • 本能寺の変後に光秀へ2回勅使となり、その礼として光秀から銀50枚をもらい、他にも2回会った[2]。『兼見卿記』によると山崎の戦い後の6月14日、織田信孝の家来と名乗る津田越前入道が、朝廷と五山その外に銀子を与えたのは怪しからんことだと信孝が怒り陣所でも取りざたされていると使者としてくる。兼見は釈明したが津田は納得せず帰る。兼見は参内して誠仁親王にとりなしを依頼し柳原淳光が向かう。また秀吉の京都奉行・桑原貞也にも申し入れるが京中で類件が頻発と説明される。信孝の元へ使者が向かうが不在で、後に柳原が会うと命じていないと返答がある。また信孝から兼見に「津田に命じてないので不審で捕らえる」との手紙が来た。秀吉にもこの件で手紙を送るが「問題ない」と返書が来た。作家桐野作人は津田は元々信長の馬廻りで兼見が光秀と親しかった反発の表れだと評する。[3]

兼見卿記

兼見が記した日記で、特に京の政治情勢に関して詳しく記されており、他にも北野社の大茶会をはじめとする茶器・連歌などの文芸、天正大地震による若狭湾での大津波の記録など、織豊政権期の重要な資料の一つとされている。本能寺の変の起こった天正10年分だけ、以前の記述分が別本として存在しており、光秀との関わりのある件が書き直され銀子糾問の影響など様々に分析されている[3]

関連項目

脚注

  1. ^ 『信長と将軍義昭』谷口克広 P.146-148 中公新書 2014年
  2. ^ 『検証 本能寺の変』谷口克広 P.63-67 2007年 吉川弘文館
  3. ^ a b 『真説 本能寺』桐野作人 P.303-310 学習研究社 学研M文庫 2001年