大河平隆重
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大河平 隆重(おこびら たかしげ、永禄2年(1559年)? 永禄7年(1564年)? - 慶長3年11月18日(1598年12月16日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の家臣で、大河平氏の庶流。通称は源太左衛門。父は大河平隆堅。子は隆商、隆尚。
大河平氏は、元は日向国の戦国大名北原氏の家臣であったが、北原氏は伊東氏に領地を簒奪され、また大河平氏も、永禄7年(1564年)に居城の今城を伊東氏に攻撃され、城兵全員が討ち死にし断絶となった(後に大河平3代・隆次の姉婿により再興)。隆重は落城のとき6歳で、そのまま伊東氏により捕らわれの身となったが、8歳になったときに島津義弘が送り込んだ商人(商人に扮した大河平の家人とも)により救い出された。隆重は成長すると、そのまま義弘の家臣となった。
文禄元年(1592年)文禄の役に参加する義弘に従い朝鮮へ渡海、南原城の戦いや泗川の戦いで武功を上げた。しかし慶長3年(1598年)、露梁海戦の折に敵船に飛び移って戦い、討ち死にを遂げた。法名は「称念浄心居士」。
『本藩人物誌』は享年を35とする。それを信じれば永禄7年(1564年)生まれとなるが、一方で前述の通り永禄7年の時点で6歳ともしており、その場合は永禄2年(1559年)生まれとなるため矛盾が生じる。
参考文献
- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)