禅興寺 (鎌倉市)
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禅興寺 | |
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所在地 | 神奈川県鎌倉市 |
山号 | 福源山 |
宗派 | 臨済宗 |
開山 | 蘭渓道隆 |
開基 | 北条時宗 |
禅興寺(ぜんこうじ)は、かつて神奈川県鎌倉市山ノ内に存在し、明治元年に廃寺となった臨済宗の寺院。正式には禅興久昌禅寺という。
歴史
鎌倉幕府五代執権北条時頼は、鎌倉の山ノ内に有していた私邸を出家得度した際に最明寺とし、建長寺開山蘭渓道隆大覚禅師を戒師として法名を覚了房道崇と名乗った。
北条時頼の死後、最明寺は廃寺となっていたが、六代執権の北条時宗が、文永年中、蘭渓道隆を開山として廃寺となっていた最明寺を再興し、禅興寺とした。
北条貞時十三年忌には、90名余の僧が出頭しており、その数は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺に次ぐものであった。歴代住持には大休正念、鏡堂覚円、東明慧日など中国僧の名が確認できる。
暦応4年(1341年)8月頃、禅興寺はすでに十刹の第二位に列せられ、その後、延文3年(1358年)9月に十刹の第一位、康暦2年(1380年)に十刹の第二位、至徳3年(1386年)7月に関東十刹の第一位となった。
康暦元年(1379年)足利氏満(関東公方)が、関東管領上杉憲方に禅興寺の中興を命じる。上杉憲方は、出家後に禅興寺の中に蘭渓道隆5世法孫の密室守厳を開山に、塔頭明月院を建てた。
永正6年(1509年)には、足利政氏が復興に力を入れ、玉隠英璵が再興に尽力した。[1]
明月院は禅興寺の塔頭であるが、寺とは独立した寺領をもっており、かつ檀那が関東管領上杉氏であったために生き残った。延宝6年(1678年)禅興寺に入寺した東陽道杲が、天和2年(1682年)梵鐘を鋳造、本尊釈迦如来像を造立するなど再建に尽力したが、後に無住となり明月院の管理となった。禅興寺は明治元年に廃寺となり、明月院のみを残し、現在に至っている。
外部リンク
関連項目
- ^ (竹貫元勝「鎌倉の禅寺散歩」慶友社、2001年)ISBN 4-87449-230-4)