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伊治呰麻呂

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伊治呰麻呂(これはりのあざまろ、これはるのあざまろ、生没年不明)は、日本の奈良時代陸奥国蝦夷の指導者である。日本につかえて外従五位下になった。780年伊治城で反乱を起こした。史料中に伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ、これはるのきみあざまろ)としてあらわれるため、そのように呼ぶことも多い。

伊治呰麻呂は伊治(現在の宮城県栗原市)の有力者とされる。史料に読み方が記されなかったため、伊治は長く音読みで「いじ」と読まれてきた。また、呰麻呂は『続日本紀』に上治郡大領とあるが、上治郡は不明の地であった。後に「此治郡」という表記の木簡が出土したため、此と伊は訓読みで「これ」の同音異字で通じ、上治を此治の誤記とする説が有力になった。同じ「これはり」または「これはる」が郡と城と人に冠して付けられたということになる。

当時日本と北方の蝦夷の間には連年交戦が続いており、伊治郡はその最前線に位置していた。伊治公呰麻呂は夷俘(俘囚)の出身であったが、778年(宝亀9年)6月25日に外従五位下に任じられた。『続日本紀』には、陸奥按察使紀広純は、はじめ呰麻呂を嫌ったが、後にはなはだ信用するようになったとある。外従五位下への叙位も呰麻呂が得た信任を反映するものであろう。しかし同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は、呰麻呂を見下して夷俘として侮った。呰麻呂は内心深く恨んでいた。

780年(宝亀11年)に紀広純は覚鱉城建設に際して伊治城を訪れた。3月22日、その機会をとらえて呰麻呂は俘囚の軍を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺した。陸奥国大伴真綱だけが囲みを破って多賀城に逃れた。城下の住民は多賀城の中に入って城を守ろうとしたが、真綱は石川浄足とともに後門から隠れて逃げた。住民もやむなく散り散りになった。数日後に蝦夷軍が城に来て城を略奪し、放火して去った。

呰麻呂の行動記録は伊治城の反乱で途切れる。多賀城の略奪は反乱の直接の結果だが、その指揮官が誰かを史料は記さない。呰麻呂が多賀城を落とした可能性も高いが、別の将による可能性も否定できない。これ以後続いた戦争の中で、呰麻呂がどんな役割を果たしたかは不明である。呰麻呂が日本軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記しただろうから、記録の欠落は呰麻呂がそうした最期を迎えなかったことを示唆する。反乱によって伊治城とその周辺は何年か日本の支配を脱したが、やがて再び制圧された。