ノート:後醍醐天皇
皇子のよみについて
「良」の字を「なが」と読んだのは、香淳皇后の本名が「良子」と書いて「ながこ」と読んだのにあわせたのであって、そっちのほうがもともと変だったのでしょう。 --ねこぱんだ 2006年3月21日 (火) 16:02 (UTC)
編集合戦が起きていますが、合戦部分の全てが呆庵入道さん独自の主観とも思われませんので、出典を示されてはいかがですか?当方の感覚では該当部分は概ね事実だと思いますので、呆庵入道さんを応援したいのですが、出典を示せない限り削除されてもやむを得ないのでは。--Snap55 2008年5月15日 (木) 15:39 (UTC)
- IPユーザー氏が気に入らないのは、もっぱらNHK大河ドラマ「太平記」に関する部分だけのようですので、とりあえずは、この部分の出典が示せればいいでしょうか。この部分は太平記 (NHK大河ドラマ)に依拠して書いた文章なので、それでは出典として不足であるということであればすぐに撤回することもやぶさかではありません。私は、IPユーザー氏が一貫して無言でリバートし続けるのが失礼だという感情的要素が大きいので、いつでも手を引くことは可能です。要は「神社の宣伝文句がどうだろうと、天皇が決めたことだろうと、学術的な研究成果の前には無力だ」ということが明記できればそれでいいのです。「なお、これは、信仰の次元において「良」を「なが」と読むこととは別次元の問題である。」と記述することで神社側の主張にも一定の尊重と理解を示した記述にしたつもりなのですが、それではIPユーザー氏にはご満足いただけないのでしょうかねえ。もちろん、箇条書きにしてある4ヶ条についても、出典はあったほうがいいですから、そちらについても再確認します。ただ4か条のうち『諱訓抄』の写本の制作年代については私が書き加えたものではないので、その部分については提示できないかもしれません。--呆庵入道 2008年5月17日 (土) 13:05 (UTC)
- ご存じの通り、ウィキペディア自身の記事を出典として引用することは、自己参照となるため、できません(Wikipedia:信頼できる情報源#情報源)。特に、「この番組の社会的影響は非常に大きく、後醍醐の皇子たちの名の「良」の字について「よし」と読むことが一般にも広く定着した。」については、事実かもしれませんが検証可能と思われないためさすがに無理と思います。4ヶ条については現時点で合戦の対象外ですが、出典があった方が望ましい事項であることに間違いないので、是非調査お願いします。なお、ご参考ですが「市販本新しい歴史教科書」扶桑社,2001年,94ページ では「もりよししんのう」とルビが振られていることから、高校では一般に「もりよし」と教えられている可能性は高いと思います。各種教科書の調査により高校で教えられていることを示せれば、「よし」と読む説の非常に強い補強材料になると思います。独自研究とならないように気をつける必要はありますが、他の書籍上でどのようにルビが振られているか調査の上記載するのも手だとは思います。--Snap55 2008年5月17日 (土) 16:24 (UTC)一部追記--Snap55 2008年5月19日 (月) 13:38 (UTC)
- ご教示ありがとうございます。それでは大河ドラマに関する記述については取り下げということにいたします。4ヶ条については、いただいたアドバイスも参考に、とりいそぎ調査します。なにぶん自分の蔵書ではなくて、万事図書館とインターネットが頼りなので、いちいち時間がかかります。ご迷惑おかけします。--呆庵入道 2008年5月19日 (月) 12:17 (UTC)
- 「皇子の読み」を2007年6月と2008年4月に大幅に加筆した張本です。私が「よし」加筆のネタにしたのは、森茂暁さんの『皇子たちの南北朝』(中公新書)です。ここ20年ほどの歴史学者が書いた本では殆どが「よし」だと記憶していますが、「よし」説、「なが」説について詳しく書いてあるのは上記の森さんの本ぐらいだと思いました。ちなみに手元にあった、私が高校の時に使っていた約20年前の『新版日本語用語集』(山川出版社)では「もりよし」となっています。あと参考になるのは『国史大辞典』ですね。--怪蘇 2008年5月19日 (月) 15:49 (UTC)
調べてきました。本文記載の4ヶ条の論拠については、すべて下記の2冊により確かめられます。
- 森茂暁 『皇子たちの南北朝』 中央公論社〈中公新書〉、1988年
- 永積安明・上横手雅敬・桜井好郎 『太平記の世界 変革の時代を読む』 日本放送出版協会、1987年
なお、両書から、さらに2,3の論拠を追加することができましたので、本文を編集するときにいっしょに記述するつもりです。ちなみに「なが」でなく「よし」であることは「近年」の研究成果ではなく、すでに大正年間から指摘されていたことだそうです。
高校の日本史(通史を扱う日本史B)の教科書で現在文部科学省の検定に合格しているものは11種ありますが、11種とも「護良」は「もりよし」でした。ただし、11種のうち6種は括弧書きなどで「もりなが」も併記しています。もっとも、6種の教科書のいずれも「よし」が主で「なが」が従であることは明示されています。教科書には、先生が1年間の授業の方針を立てたり細かい事項の下調べなどに使ったりするための「指導資料」「教授資料」などと題した副読本があわせてつくられますが、こちらのほうは、先生が使うものだけにわざわざ振り仮名などは振っていないものが多く、また11種すべてを調べることもできていないのですが、少なくとも4種の指導資料で「もりよし」としていることを確かめました。こちらは「もりなが」の併記はいっさいなしです。
なお『国史大辞典』(吉川弘文館)は、後醍醐の皇子はすべて「よし」で統一されています。後二条の皇子邦良や亀山の皇子守良も「よし」です。ただし、別に「もりながしんのう」の記事も立てて「もりながしんのう 護良親王 ⇒もりよししんのう」という記述をしています。
以上、現時点での調査結果でした。--呆庵入道 2008年5月25日 (日) 11:49 (UTC)
- 調査おつかれさまです。「よし」と高校で教えられていることから、学術的に「よし」が正しいのはほぼ間違いないですね。当項目は歴史に関する項目ですので、NHK大河ドラマに関するトリビアな蘊蓄より、呆庵入道さんが調査された内容の方が、はるかに百科事典として適切ですし説得力もあるのでは、と思います。調査を踏まえた本文の編集を楽しみにしております。--Snap55 2008年5月26日 (月) 14:44 (UTC)
- ご返事がすっかり遅れてしまい失礼いたしました。自分が好きでやっていることですから、丁寧なねぎらいのお言葉をいただき、かえって恐れ入ります。ありがとうございます。いまちょっとほかの記事のことで宿題をかかえてしまったものですから、そのままになってしまっていますが、近いうちに必ずなんとかしたいと思います。よろしくお願いします。--呆庵入道 2008年6月1日 (日) 12:19 (UTC)
- やっと調査結果を記事に反映できました。お気づきの点がありましたらご遠慮なくご叱正ください。--呆庵入道 2008年6月10日 (火) 13:49 (UTC)
- また、IPユーザーにより説明もなく削除(その上で百科事典として著しく不適切な個人的感想の記述)されていましたので、リバートの上若干表現を中立化させて頂きました。せっかくの呆庵入道さんの力作に対して、無断で手を入れることとなってしまい申し訳ありません。再度IPユーザーによる説明なき削除が行われた場合は、「荒らし」とみなして、半保護依頼も視野に入れた対処を検討しましょう。--Snap55 2008年6月11日 (水) 14:24 (UTC)
- 呆庵入道さん執筆ご苦労様です。Snap55さんもナイスサポートご苦労様です。出典もしっかりしているし、バランスが取れた記述でとてもいいと思います。--怪蘇 2008年6月17日 (火) 16:04 (UTC)
Snap55さん、怪蘇さん、お疲れさまです。体調不良と多忙が重なってしばらくオンラインから落ちているあいだに、またひと悶着あったようで、Snap55さんにはご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ありませんでした。私の書いたものよりも、Snap55さんに添削していただいたもののほうが、文章の角が取れて、かえってよかったと思います。これは推測ですが、IPユーザーさんが「なが」にこだわるのは、どうやら鎌倉宮への信仰に関係があるのではと思ったので、勝手ながら、最後にワンセンテンス付け加えてみました。いかがでしょうか。--呆庵入道 2008年6月18日 (水) 13:25 (UTC)
秋葉山近辺のお寺に聞けば、出家(戒名)をすると、書き方を変えず、読み方だけを変える習慣があると、答えられると思います。--Nikau 2011年11月7日 (月) 06:47 (UTC)
記事の冒頭について
記事の冒頭部は簡潔な方が望ましいと思ますが、いかがでしょうか。--枢斬 暗屯(会話) 2020年6月12日 (金) 12:27 (UTC)
枢斬 暗屯さん。コメントありがとうございます。冒頭部の書き方については、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)を御覧ください。初期の日本語版ウィキペディアでは、導入部を短くして概要節を作る慣習があり、現在でも手直しされていない項目があるため、確かに今でも短い記事が多いです。しかし、スタイルマニュアル上は、現在ではどちらでも可となっています。英語版など海外のウィキペディアでは、概要節を設けず、導入部を厚くする方が一般的です。 -Senu(会話) 2020年6月12日 (金) 13:31 (UTC)
- 月間強化記事賞にノミネートされていたことから、投票がてらノートページに立ち寄った者です。既に当事者間で解決済のトピックと思われますが、遅ればせながらコメント致します。おおむね@Senuさんの見解を支持します。@枢斬 暗屯さんがバッサリ導入節をカットした編集 (差分) は WP:LEAD (導入節のスタイルマニュアル) の観点から不適切です。現時点版は政治上の功績、学問・芸術面での才能、人柄、後世からの評価で段落構成されており、導入節に書かれるべきパーツとしては非常にバランスが良いと思います。ただし、やや書きすぎとのご意見も理解できます。一例を挙げますと、
「日本史上最も偉大な統治者の一人であると、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏および南朝准三宮の北畠親房から見なされた。事実、室町幕府および南朝の政策は...」 — oldid=78297033 より抜粋
「日本史上最も偉大な統治者の一人と評されることもあり(※)、室町幕府および南朝の政策は...」 — 改稿案
- このように簡略化できると思います。※の箇所は注釈形式に格下げし、だれが評したのか帰属化情報を添えれば可読性が上がるのではないでしょうか。ご一考下さい。--ProfessorPine(会話) 2020年7月4日 (土) 03:04 (UTC)
- ProfessorPineさん、的確なご意見感謝いたします。確かに導入部が長くなりすぎると、可読性を損なうという点について、同意いたします。政策部について、ご提案そのままの形ではないものの、具体的な帰属者を注釈にするという形で簡潔化を図りましたが、いかがでしょうか。ほんの若干ですが、以前よりも導入部本文は短くなったかと思います。他の部分についても、もう少し簡潔に書くことができないか、考えたいと思います。--Senu(会話) 2020年7月4日 (土) 15:17 (UTC)
- Senuさん、早速ご検討いただきありがとうございます。前提として申し上げておきますと、初学者が読んでもついていけるよう、導入節では細かい部分に入る前の「助走」が必要であり、また内部リンクをクリックせずともある程度読み進めることができるよう、配慮が必要だと私は考えております。7月4日 (土) Senuさん改稿版 (以下、現時点版) でもやはり、まだ細かすぎるきらいがあるというのが率直な感想です。第1段落 - 第3段落のみピックアップしますが、私だったらこれくらいスリム化すると思います。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉。諱は尊治(たかはる)。元弘の乱(1331年 - 1333年)で鎌倉幕府を倒し、武家から天皇による直接統治に移行させるも(建武新政)、間もなく武家の足利尊氏との戦い建武の乱に敗れて大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立。尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱に陥り、劣勢のまま50歳で崩御した。
南朝や室町幕府も、その政策の多くは後醍醐天皇の建武政権を基盤としており、「日本史上最も偉大な統治者の一人」と評される。その中でも特に、氏族支配(縁故を通じた利権システム)から土地区分による統治への転換は日本初として知られる。これに伴い、新たな土地の拝領システムを全国的に導入し、国や郡といった地域の下部機構を強化した。その他の功績として、官位を恩賞として用いたこと、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、陸奥将軍府や鎌倉将軍府など地方分権制の先駆けでもあることなどが挙げられる。 — oldid=78311341 (2020年7月4日 (土) 15:09 UTC) 版の改稿案
- 現時点版の第1段落ですが、ほぼ年号で埋め尽くされていますが、主題の定義になっていないです。在位年は必要と思いますが、何をやった人なのかを書くのを犠牲にしてまで、治天の年を第1段落に書く必要性は感じません。特に第1段落は、GoogleスニペットやWeblioなど外部サイトで抜粋されるケースが多いことを意識しています。そのため、治天は削り、代わりに南北朝の内乱までの概要を第1段落に格上げ。かつ、劣勢のまま崩御した旨を追記しました。
- 第2段落冒頭で「大覚寺統の天皇」とありますが、持明院統と対立した血筋だという情報なしで、いきなり冒頭節で「大覚寺統」を持ち出すのは無理があり、削りました。仮に大覚寺統を導入節にも残すならば、本文の「#即位前」節で、きちんと政治的な文脈を解説するのが先でしょう。
- 「建武新政」も、言葉を補わないと初学者には文脈が伝わらず厳しいのでは? とりあえず「武家から天皇による直接統治に移行」と書いておきましたが、適当にいじっていただければ。
- 第3段落は全般的に詰め込みすぎ。導入節では一番一区制まで触れる必要性を感じません。むしろBefore/Afterを分かりやすいキーワードで伝える方が重要であり、「氏族支配」の定義不足が気になります。いったんかっこ書きで(縁故を通じた利権システム)と書いておきましたが、これも適当にいじって下さい。ただ、土地ではなく血縁・縁故だったという点は書いた方が良いです。
- ただし、「その他の功績」でまとめてしまった箇所は、もう少し意味を整理して書き換えたいところです。私の理解では、国や群の下部統治機構の強化=地方分権制に直結するので、ダブつきがあって読みづらいです。その間に武士への全国的な政治権力という文言が出てくるので、中央集権的なのか地方分権的なのか、読んでいて混乱します。さらに、なぜ恩賞としての官位がこの順番で出てくるのかも意味が分かりませんでした。土地の拝領は銭や領民支配にかかわる実質的な話、恩賞は名誉寄りで士気を高める目的。このあたりを整理して、記述する順番の工夫が必要でしょう。
- こんな感じで、まだまだ手を入れられそうではありますが、あまり詳しい領域でもないのでこれくらいにしておきます。あくまで急ごしらえの素案ですので、軽く参考にする程度の扱いにして下さい。--ProfessorPine(会話) 2020年7月6日 (月) 04:05 (UTC)