張澍
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張 澍(ちょう じゅ、乾隆46年(1781年) - 道光27年(1847年))は、清代の考証学者。字は百瀹、号は介侯[1]。
生涯
[編集]涼州府(現在の甘粛省)武威県の人。嘉慶4年(1799年)に進士に及第し、翰林院庶吉士に選ばれる。散館の後玉屏県の知県となったが、病のために戻った。後に屏山県、興文県の知県に任じられたが、父の喪に服するため辞職した。丁憂が明けた後に永新県の知県、臨江府の通判に任じられたが、罪に問われて解任された。復官後は瀘溪県の補県に任じられたが、またも丁憂のために辞職した[1]。
陳寿の『諸葛亮集』と裴松之註の『襄陽記』などを参考として、諸葛亮の一族(諸葛懐・諸葛質・諸葛望ら)についての『諸葛忠武侯文集』・『編集諸葛忠武侯文集自序』を著した。
他にも『養素堂文集』・『姓氏尋源』・『諸葛亮文集全釈』(方家常との共著、貴州人民出版社)などを著している。
中華人民共和国の歴史学者・張崇琛は、張澍が記した諸葛一族は後世の創作であろうと指摘し、その実在を否定している。