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モスクワ劇場占拠事件

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モスクワ劇場占拠事件
場所 ロシア連邦 モスクワ
座標
北緯55度43分33秒 東経37度40分24秒 / 北緯55.72583度 東経37.67333度 / 55.72583; 37.67333座標: 北緯55度43分33秒 東経37度40分24秒 / 北緯55.72583度 東経37.67333度 / 55.72583; 37.67333
日付 2002年10月23日 - 10月26日
概要 人質事件
死亡者 人質129名、犯人42名
犯人 チェチェン共和国独立派
対処 無力化ガスを散布後
ロシア連邦保安庁アルファ部隊が突入
犯行グループ全員を射殺
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事件後に病院に収容された生存者を見舞うプーチン大統領(2002年10月26日)

モスクワ劇場占拠事件(モスクワげきじょうせんきょじけん)は、2002年10月23日 - 10月26日にかけて、ロシア連邦内でチェチェン共和国の独立派武装勢力が起こした人質・占拠事件である。

概要

2002年10月23日、42名の武装勢力は、モスクワ中央部ドブロフカ(ドゥブロフカ)ロシア語版にある劇場「ドブロフカ・ミュージアム」で観客922名を人質に取り、第二次チェチェン紛争により進駐してきたロシア連邦軍のチェチェン共和国からの撤退を要求した。これが受け入れられない場合は人質を殺害、自分達も爆弾を使って劇場ごと自爆すると警告。これに対し、ロシア当局は強硬な態度を示し、武装勢力の要求を事実上拒否して武装勢力は追い詰められた。

その後武装勢力は、10月26日朝までに自分達の要求が受け入れられなければ人質を殺害するという最後通告を行ったため、緊張が高まった。政府はこれに対し交渉を行うとの声明を出したが、実際は突入への準備が行われていたといわれる。

26日の午前6時20分頃にロシア連邦保安庁(FSB)の特殊部隊であるアルファ部隊が突入。その際、特殊部隊は犯人を無力化するためにKOLOKOL-1と呼ばれる非致死性ガスを使用した。劇場内にいた大半はこのガスによって数秒で昏倒し、異変に気付いて対処しようとした武装グループの何人かと特殊部隊との間で銃撃戦が発生したが、短時間で制圧された。武装勢力側は全員射殺された。

なお、突入の直前に犯行グループ側が人質を殺害したとの報道も流されたが、発表では銃弾で死亡した人質はいない。亡くなった人質の死因は窒息死で、特殊部隊側がどのようなガスを使用したかを救急隊に隠したため、人質は救出後仰向けに寝かされ、喉に異物が詰まり窒息死した。[1]

ロシア政府は当初、このガスの成分を一切公表しなかったが、後日ロシア保健相が麻酔薬であるフェンタニルを主成分にしたものであるとの発表を行った。しかし、詳細な成分については今なお不明である。

武装勢力は一人残らず射殺されたと報道されたが、ただ一人死を免れたハンパシ・テルキバエフという男がいたことは秘密にされた。2003年、ロンドン在住の元FSB大佐のアレクサンドル・リトビネンコは、ロシア政党自由ロシアの副議長、セルゲイ・ユシェンコフに、テルキバエフに関する情報を手渡した。その後まもない4月17日、ユシェンコフ議員はモスクワの自宅前で銃殺された。リトビネンコによれば、テルキバエフはチェチェン抵抗勢力へ浸透し、挑発するために訓練を受けていたという。テルキバエフはチェチェンのマスハドフ大統領(当時)のプレスサービスに勤めていた過去を持ち、また、(劇場占拠事件の後の2003年3月に)ストラスブルグで開かれた欧州評議会議員総会(PACE)のセッションに、ロシア議会外交委員長のドミトリー・ロゴージンの随員として参加していた。テルキバエフは国営紙「ロシア新聞」の記者証を持っていたとされている。[1]

その後、この事件について調べていたアンナ・ポリトコフスカヤの前にテルキバエフが現れ、自分は劇場占拠時、内部にいた囮工作員で、武装勢力をそそのかした主犯だったとアンナ・ポリトコフスカヤに明かした。またロシア連邦保安庁の捜査官でもありクレムリンの顧問であると証言した。テルキバエフが、なぜ命を差し出すような証言をしたのかは不明だが、取材したアンナ・ポリトコフスカヤがインタビューを公開した後、2003年12月15日、テルキバエフはチェチェンで自動車事故に遭って亡くなった。アンナ・ポリトコフスカヤも、2006年10月7日の午後、自宅エレべーター内で射殺体で発見された。10月7日はプーチンの誕生日である。[1]

脚注

  1. ^ a b c Blake, Heidi; ハイディ・ブレイク. (2020). Roshian rūretto wa nigasanai : pūchin ga shikakeru ansatsu puroguramu to arata na sensō. Takurō. Kagayama, 加賀山卓朗.. Tōkyō: Kōbunsha. ISBN 978-4-334-96245-6. OCLC 1200690061. https://www.worldcat.org/oclc/1200690061 

関連項目

外部リンク