新井淳
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あらい じゅん 新井 淳 | |
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1923年頃の写真 | |
本名 | 新井 淳一あらい じゅんいち |
生年月日 | 1890年1月10日 |
没年月日 | 1943年2月28日(53歳没) |
出生地 | 日本 埼玉県児玉郡本庄町(現:同県本庄市) |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 新派、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1910年 - 1937年 |
活動内容 |
1910年 藤沢浅二郎に入門 1914年 日活向島撮影所入社 1923年 国際活映に移籍 1923年 松竹蒲田撮影所入社 1935年 松竹大船撮影所移転 |
新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943年2月28日[1])は、日本の俳優である[2][3]。本名は新井淳一(一説に本名同じ)。新派出身で、現代劇の映画を中心に出演した。
人物・来歴
[編集]1890年(明治23年)1月10日、埼玉県児玉郡本庄町[3](現:同県本庄市)に「新井淳一」として生まれる[2][3]。
東京に出て、旧制・麻布中学校(現:麻布中学校・高等学校)を卒業[3][4]後、呉服店に勤務、番頭を務める[4]。俳優を志し、1910年(明治43年)、新派の俳優・藤沢浅二郎に入門する[3]。藤沢が当時、映画出演していた吉沢商店が1912年(明治45年)に他の3社と合併して日本活動写真(現在の日活)となった。藤沢は日活向島撮影所に出演し、新井も1914年(大正3年)に入社、「日活新派」と呼ばれる現代劇に出演した[2][3]。
1923年(大正12年)、藤野秀夫、衣笠貞之助、横山運平、藤川三之助、東猛夫、荒木忍、島田嘉七ら12名とともに日活向島を集団退社、国際活映(国活)に移籍した[2]。坂田重則監督の『鷲津村の娘』、村田実監督の『父の罪』に出演したが、まもなく同社が経営不振のため製作を停止し、新井は松竹蒲田撮影所に移籍した[2]。国活は1925年(大正14年)に解散した。
松竹蒲田では、島津保次郎、五所平之助らの作品に多く出演した[2]。満47歳を迎えた1937年(昭和12年)、島津監督の『兄とその妹』に出演したのを最後に俳優業を引退し、以後の消息は不明[2][3]とされていたが、1943年(昭和18年)2月28日に死去したという[1]。満53歳没。
フィルモグラフィ
[編集]- 『あかね染』:監督不明、1917年
- 『若葉の宿』:監督不明、1917年
- 『七色指環』:監督小口忠、1918年
- 『生ける屍』:監督田中栄三、1918年
- 『金色夜叉』:監督小口忠・田中栄三、1918年
- 『恋の浮島』:監督不明、1918年
- 『オセロ』:監督田中栄三、1919年
- 『朝日さす前』:監督田中栄三、1920年
- 『生さぬ仲』:監督小口忠、1921年
- 『不如婦』:監督不明、1922年
- 『二人静』:監督大洞元吾、1922年
- 『京屋襟店』:監督田中栄三、1922年
- 『鷲津村の娘』:監督坂田重則、1922年
- 『若き妻の死』:監督坂田重則、1923年
- 『父の罪』:監督村田実、1923年
- 『愛情の極み』:監督坂田重則、1923年
- 『感じの好い映画集 帽子』:監督池田義信、1924年
- 『悪太郎』:監督島津保次郎、1924年
- 『大地は微笑む』前篇・中篇・後篇:監督牛原虚彦・島津保次郎、1925年
- 『村の先生』:監督島津保次郎、1925年
- 『坂崎出羽守』:監督・主演勝見庸太郎、1925年
- 『寂しき乱暴者』:監督五所平之助、1927年
- 『カラボタン』:監督野村芳亭、1926年
- 『父帰る』:監督野村芳亭、1927年
- 『先生と其娘』:監督佐々木恒次郎、1927年
- 『女の一生』:監督池田義信、1928年
- 『不壊の白珠』:監督清水宏、1929年
- 『麗人』:監督島津保次郎、1930年
- 『あら!その瞬間よ』:監督斎藤寅次郎、1930年
- 『涙の愛嬌者』:監督野村浩将、1931年
- 『桃色の誘惑』:監督野村浩将、1931年
- 『銀座の柳』:監督五所平之助、1932年
- 『チョコレートガール』:監督成瀬巳喜男、1932年
- 『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』:監督衣笠貞之助、1932年
- 『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』:監督衣笠貞之助、1932年
- 『君と別れて』:監督成瀬巳喜男、1933年
- 『愛撫 (ラムール)』:監督五所平之助、1933年
- 『人生のお荷物』:監督五所平之助、1935年
- 『僕の春』:監督深田修造、1936年
- 『男性対女性』:監督五所平之助、1936年
- 『人妻椿』:監督野村浩将、1936年
- 『荒城の月』:監督佐々木啓祐、1937年
- 『兄とその妹』:監督島津保次郎、1937年