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哀侯(あいこう、生年不詳 - 紀元前708年)は、中国の春秋時代の晋の君主。姓は姫、名は光。
生涯
晋の鄂侯の子として生まれた。紀元前718年、曲沃の荘伯が兵を起こして翼を攻撃し、鄂侯は随に逃れた。周の桓王が虢公に命じて荘伯を攻撃させると、哀侯が晋侯として擁立された[1]。紀元前710年、哀侯が陘庭の田土に侵入したので、陘庭の南郊の人々は曲沃を引き入れて翼を攻撃した[2]。紀元前709年、曲沃の武公が翼を攻撃し、陘庭に宿営した。哀侯は汾水の岸辺に追い立てられ、侯の車は添え馬が木に引っかかって止まった。哀侯は欒成(欒共叔)とともに曲沃軍に捕らえられた[3]。子の小子侯が晋侯として即位した。紀元前708年、曲沃の武公は韓万に命じて哀侯を殺させた[4]。
脚注
- ^ 『春秋左氏伝』隠公5年
- ^ 『春秋左氏伝』桓公2年
- ^ 『春秋左氏伝』桓公3年
- ^ 『史記』晋世家
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成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
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翼宗家 |
- 昭侯前745-前739
- 孝侯前739-前724
- 鄂侯前723-前718
- 哀侯前717-前710
- 小子侯前709-前706
- 晋侯緡前706-前679断絶
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曲沃分家 |
- 桓叔前745-前731
- 荘伯前731-前716
- 武公前716-前678
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- 武公前678-前677
- 献公前676-前651
- 奚斉前651
- 卓子前651
- 恵公前650-前637
- 懐公前637-前636
- 文公前636-前628
- 襄公前627-前621
- 霊公前620-前607
- 成公前606-前600
- 景公前599-前581
- 厲公前580-前573
- 悼公前572-前558
- 平公前557-前532
- 昭公前531-前526
- 頃公前525-前512
- 定公前511-前475
- 出公前474-前457
- 哀公前456-前438
- 幽公前437-前420
- 烈公前419-前393
- 孝公前392-前378
- 静公前377-前376
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