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奈古屋蔵人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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奈古屋 蔵人
時代 江戸時代中期
生誕 寛保3年(1743年
死没 寛政5年9月17日1793年10月21日
改名 奈古屋豊敬
別名 蔵人、繁之丞(通称)、子信(字)
墓所 八正寺山口県周南市
主君 毛利広寛就馴
徳山藩
氏族 大江姓毛利氏庶流奈古屋家
父母 父:奈古屋豊兼、母:長浜実重の娘
河手某の娘
寿惇
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奈古屋 蔵人(なごや くらんど)は、江戸時代中期の徳山藩家老豊敬

生涯

宝暦8年(1758年)、16歳で父・奈古屋豊兼の跡を継ぎ馬廻組頭となる。以後30余年にわたり、徳山藩主毛利広寛就馴の2代に仕え、藩政を輔弼した。その間、執政となること2度、参政と馬廻組頭を兼ねて東覲に従うこと6度、江戸藩邸に勤めること8度、長州藩にもたびたび出向くなど、藩の発展に尽くす。

学問を好み、詩文や書画にも巧みであった蔵人は、天明5年(1785年5月9日には藩主・就馴の命を受けて藩校鳴鳳館を創設し、藩学振興の基盤を確立した。「鳴鳳館」の名は、蔵人と親交のあった儒学者亀井南冥に依頼し、「詩経」の大雅の巻・阿の章から「鳴鳳」の2字を取って命名された。

寛政5年(1793年9月17日に死去した。享年51。蔵人の死後まもなく藩主に就いた毛利広鎮はその功を追慕し、文化4年(1807年)に自ら墓碑銘を選んで、役藍泉(島田藍泉)に碑文を作らせ、八正寺山口県周南市)に追慕の碑を建立した。なお、現在この碑は大迫田に移設されており、墓は八正寺にある。

追慕の碑の碑文を作った役藍泉は、蔵人を「賢良にして精密、その職掌のみならず諸吏のなすところ亦皆精通し、挙措の苟且に渉るものなし。体頗る多病なるも沈毅事に当たって屈撓せず、大節に臨みて奪うべからざる人」と讃えている。

参考文献