奈古屋蔵人
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛保3年(1743年) |
死没 | 寛政5年9月17日(1793年10月21日) |
改名 | 奈古屋豊敬 |
別名 | 蔵人、繁之丞(通称)、子信(字) |
墓所 | 八正寺(山口県周南市) |
主君 | 毛利広寛→就馴 |
藩 | 徳山藩 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流奈古屋家 |
父母 | 父:奈古屋豊兼、母:長浜実重の娘 |
妻 | 河手某の娘 |
子 | 寿惇 |
奈古屋 蔵人(なごや くらんど)は、江戸時代中期の徳山藩家老。諱は豊敬。
生涯
宝暦8年(1758年)、16歳で父・奈古屋豊兼の跡を継ぎ馬廻組頭となる。以後30余年にわたり、徳山藩主毛利広寛・就馴の2代に仕え、藩政を輔弼した。その間、執政となること2度、参政と馬廻組頭を兼ねて東覲に従うこと6度、江戸藩邸に勤めること8度、長州藩にもたびたび出向くなど、藩の発展に尽くす。
学問を好み、詩文や書画にも巧みであった蔵人は、天明5年(1785年)5月9日には藩主・就馴の命を受けて藩校・鳴鳳館を創設し、藩学振興の基盤を確立した。「鳴鳳館」の名は、蔵人と親交のあった儒学者の亀井南冥に依頼し、「詩経」の大雅の巻・阿の章から「鳴鳳」の2字を取って命名された。
寛政5年(1793年)9月17日に死去した。享年51。蔵人の死後まもなく藩主に就いた毛利広鎮はその功を追慕し、文化4年(1807年)に自ら墓碑銘を選んで、役藍泉(島田藍泉)に碑文を作らせ、八正寺(山口県周南市)に追慕の碑を建立した。なお、現在この碑は大迫田に移設されており、墓は八正寺にある。
追慕の碑の碑文を作った役藍泉は、蔵人を「賢良にして精密、その職掌のみならず諸吏のなすところ亦皆精通し、挙措の苟且に渉るものなし。体頗る多病なるも沈毅事に当たって屈撓せず、大節に臨みて奪うべからざる人」と讃えている。