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流線形車両

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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LMS鉄道のプリンセス・コロネーション級蒸気機関車「ダッチェス・オブ・ハミルトン」[1]

流線形車両(りゅうせんけいしゃりょう、流線型車両とも)は、空気抵抗を減らすために流線デザインを採用した車両である。1930年代から1950年代にかけて開発された車両に対してよく使われる言葉[要出典]であり、それ以降の車両でも流線形は一般的である。「ストリームライナー」という語は、流線型の乗り物のいくつかのカテゴリを指して使われ、厳密な定義は特に無い語であるが、鉄道車両では20世紀後半に一般的になるよりも前の、未来派の影響を受けたそれを指すことが多い[要出典]

流線形車両という語は自動車に対しても用いられるが、現代の自動車設計は、空気抵抗係数(CD値)を極限まで小さくしつつ、相反する要素である揚力係数(CL値)を可能な限り抑えるため必要に応じて適度なダウンフォースを与えるなど、空力特性に留意されているため、見た目としての流線形は取り立てて強調する特徴ではなくなっている。

流線形をめぐる時代の流れ

抵抗を減らすために造形を工夫することは、古い時代から船の水面下において行われており、19世紀には水の抵抗を低減する理論的な研究もされるようになった[2]。20世紀に入ると航空機が出現し、流体力学の問題が航空機の飛行に死活的な影響を与えることから、空気力学の研究が真剣に行われるようになった[3]。ただし初期の航空機は、プロペラが先端にある関係で前頭部を流線形にしづらく、飛行船において先に流線形化が試みられた[4]

一方、19世紀の産業革命により工業製品の大量生産が行われるようになったが、この時代の技術では単純な造形の製品のみが機械的な大量生産の対象となっていた。これに対し手作り的な装飾を重視し柔らかい曲線で構成された工芸品などの価値を主張するアール・ヌーヴォーが登場する[5]。20世紀に入ると、もはや無視できないほど工業製品が溢れるようになり、こうした工業製品にも適した機能的な美しさを追求しようとするアール・デコが発展するようになる。1925年にパリで開かれたパリ万国博覧会は「アール・デコ博覧会」とも呼ばれる。アメリカ合衆国はこの博覧会に不参加であったが、博覧会後はアール・デコ調の製品がアメリカに流れ込み、この潮流に呑み込まれていく[6]

そしてそのアメリカにおいて、アール・デコをさらに大規模工業生産に適合させて大衆化した工業デザイン(インダストリアルデザイン)という分野が誕生した。機能性と効率性を重視するが、必ずしも直線的なデザインではなく曲線を微妙に組み合わせた造形とされ、そうした潮流の一つとして流線形デザインがある[7]

形容詞のstreamlined(流線形の)という言葉が初めて使われたとされるのは1909年であり、自動車メーカーが自社の車の流れるような線を表現するために用いられていた[8]。1910年代から1920年代にかけて、未来の交通機関は空気抵抗の低減のために流線形となるだろうとの予測が現れるようになり、実際に流線形の自動車も登場した[9]。1934年にクライスラーから、初めて流線形の車体を持つことを前提に最初から設計された量産市販車としてクライスラー・エアフロー英語版が発売され、これが大きなきっかけとなり、流線形の時代が始まることになる[10]streamlining(流線形化)という言葉もこの年から一般的に使われるようになった[8]。他の交通機関においてもこれと前後して、航空機のダグラス DC-3(1935年)や、ユニオン・パシフィック鉄道M-10000(1933年)、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道パイオニア・ゼファー(1934年)など、流線形を採用するものが登場した[11]

こうして流線形のイメージが大衆に浸透すると、それにあやかって交通機関以外でのデザインに応用されるようになった。ゴルフクラブ扇風機のように、空気抵抗の影響の可能性がある製品もあったが、料理を運搬するカートやミルクボトルのようにほとんど空気抵抗の考えられないものまで流線形デザインが採用されることがあった。人間工学的に設計して障害因子を排除するという意味合いを持つようになったのである[12]。そもそも静止している建築物にも流線形デザインが採用されることがあったが、高層ビルでは風の影響を低減する必要があることから、流線形が実際的な意味を持つこともあった[13]。机、ラジオ、椅子といった製品から、女性のファッションにまで流線形デザインの影響が見られ、ヨーロッパのアール・デコに対するアメリカの新様式を示していた[14]

一方で、静止した物体にまで流線形デザインが適用されたのは、工業生産上の要請でもあった。鋼材のスタンピングプレスによって部品を安価に大量生産するとき、鋭いエッジやコーナーを作ることができないという技術的な理由によって、丸みのある柔らかい形態をとらなければならなかった。これに合わせて全体の外観を工業デザイナーが整えると、自然と流線形と感じられるようなデザインになることがあった[15]

工学的側面

自動車の周りの流線を示した図、自動車の後部に渦ができている領域で、流線が自動車表面から剥離している

流線は、空気や水のような流体の微小部分の流路を示す線である。一様に流れている流体の中に物体を入れたときに、その物体の表面が流線で囲まれるならば、その物体は流線形となっている。一方、流線がどこかで物体表面から離れてしまうときは、その物体は流線形ではない。流線が物体表面から離れている部分の内側では、流体が渦を巻いており、全体として物体に対して静止に近くなるため、死水領域と呼ばれる[16]

物体が流体の中を運動するときに受ける抵抗は、流体と物体表面の間の摩擦によって生じる摩擦抵抗と、死水領域において流体が渦を巻く運動エネルギーの分だけ余計な仕事をするために生じる形状抵抗からなっている。理想的な流線形になっていれば、形状抵抗はほとんどなく摩擦抵抗が全抵抗の大半を占める。摩擦抵抗が同一の物体でも、流線形でない物体は流線形の物体に比べて死水領域が大きくなり大きな形状抵抗を受け、全体の抵抗が数倍となることがある[17]

抵抗を低減するためには、前端が尖っている方が良いと考えがちだが、実際には前端はずんぐりとしていて、後端が尖っている方が抵抗が少ない[18]。水滴の形状がほぼこれに相当する[19]。前端の形状より後端の形状の方が、全体の空気抵抗に与える影響が大きい[20]。前端が尖っていると、斜めの流体に当たった時に剥離が生じやすくなり、また後端についても完全に尖っていると横風に対する抵抗が増すため、少し丸めた方が良い[19]。幅に比べて長さが長い、とても細長い物体では、死水領域がほとんどなくなり形状抵抗が小さくなるが、表面積が大きくなって摩擦抵抗も増えるため、全体としての抵抗では不利となる。摩擦抵抗があまり大きくならない範囲で形状抵抗を減らそうとすると、長さと幅の比率は3対1から4対1程度が良いとされ、そのとき最大断面となる場所は前端から3分の1くらいに置くとよい。飛行船のように、同一体積での抵抗を最小限にしたい場合には、長さと幅の比率は5対1程度まで長くすることがある[21]

現実に車両を設計する際には、真の流線形を適用するのが困難な場合がある。理論通りの流線形の車体にすると、自動車はとても細長くなって、街頭を走行するのに差し支えることになる[22]。後部が長いとリアウィンドウが斜めになって後方の視界が悪くなる[23]。また理論通りの流線形では前部と後部の形状は異なるが、鉄道車両の場合はどちら方向も前部となりうるので、妥協が必要である[24]

第二次世界大戦後には、自動車の後部を縦に断ち切ったような形状とすることで後部視界を改善するとともに、この形状によって生じる後部の気流の渦を、端部で境界制御層を作り出して制御する技術が生まれ、長い後端部を不要とした[23]

一方で、高速で走行するものには流線形とする意味があるが、低速走行では空気抵抗が全抵抗に占める割合が小さくなるため、あまり意味がない。たとえば、一般市街地を走る路線バスなどでは、停車回数が多く、最高速度もそれほど高くないため、流線形車体にする意味はほとんどない[25]

流線形鉄道車両

流行以前

実用的な鉄道が初めて営業運転を開始してまもなく、1833年にはアメリカ合衆国において早くも鉄道車両を流線形化する提案が生まれている。ベッセマー製鋼法を発明したヘンリー・ベッセマーも1847年に、先頭部をラウンド化し連結部分に全周幌を付けることで空気抵抗を低減するデザインを提案し、実際に試験列車を設計したものの、事故に遭って実験を行うことはできなかった。1865年にはアメリカのサミュエル・カルスロップが、先頭部と末尾部を鋭く尖らせて全体を矢じりのようにした流線形の蒸気機関車列車の編成を特許出願した[26]

フレデリック・アダムス英語版は、1893年に空気抵抗が列車の速度に与える影響に関する著作を出し、その中で流線形列車の詳細図面を示している。車両の連結部を全周幌で覆い、地面ぎりぎりまで流線形の覆いをつけ、機関車の前頭部はスラントした形状に、最後尾は丸みを帯びた形状にされていた。ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道において1900年に、機関車以外を実際にこの形状に改造した車両で走行実験が行われ、この鉄道における速度記録を達成し、大いに注目を集めた。しかし得られる速度効果と経済性の比較から、実用車両として採用されることはなかった[27]

記録の残るかぎりで最初に流線形を取り入れた営業列車は、フランスでパリ-リヨン-マルセイユ間で19世紀の終わりころから運転されたものである。「風切り号」と呼ばれた蒸気機関車は、煙室前面部に円錐形状を取り入れ、運転室をV字形状とし、煙突と蒸気溜めを一体化するといった設計がなされ、流線効果があったとされる[28]

第二次世界大戦前

この時代は外見上の流線形外被をかぶせただけのものも多く、抵抗軽減の効果が認められないうえ整備に支障を来たし[29](イギリスのLNER A4形のように科学的に空気抵抗減少を検討したのもあるが[30])、「気流の乱れのせいで排煙が車体に絡みつく(サザン鉄道マーチャント・ネイビー級[31])」、「ゴミが上部に溜まってトンネルに入るたびに舞う(ニュージーランド国鉄Ka型英語版[32]」といったトラブルを引き起こすものもあった。

ヨーロッパ

ドイツで最初の高速流線形車両は、1930年に製造されプロペラ推進を取り入れた実験的な車両であるシーネンツェッペリンである。1931年6月21日、シーネンツェッペリンはベルリン - ハンブルク間の走行で、230.2 km/hの速度記録を達成した。1932年にはプロペラが撤去され、液体変速機による駆動方式となった。この方式のシーネンツェッペリンは1933年に180 km/hを達成した。

SVT137 225編成、ライプツィヒ中央駅

シーネンツェッペリンの経験を受けて、電気式ディーゼルのSVT877フリーゲンダー・ハンブルガーが開発された。この列車は2両編成で定員98名、最高速度は160 km/hであった。1933年5月15日から定期運行が開始され、ベルリン - ハンブルク間の286 kmを138分間で走行し、平均速度は124.4 km/hとなった。SVT877は、高速気動車(Schnellverkehrs-Triebwagen・SVT)と総称される車両群のプロトタイプとなった。量産型のSVTは1935年に製造開始され、やはり急行運用に用いられた。試運転中、「ライプツィヒ様式」編成(Bauart Leipzig) は1936年に205 km/hを達成した。SVTによる定期運行で最速だったのはハノーファー - ハムを結ぶ平均速度132.2 km/hのものであった。この運行は1939年8月22日まで実施された。

ニュルンベルク交通博物館ドイツ国鉄05形蒸気機関車

ドイツは蒸気機関車でも流線形を採用し、1934年03形の1両に流線形カバーを取り付ける改造を行い、1935年には流線形を全面的に採用した05形が製造された。高速試験機に指定された05 002は1935年7月26日に195.7 km/h、1936年5月11日には200.4 km/hの速度記録を達成した。05形はその後ベルリン - ハンブルク間の特急列車牽引に充当された。続いて流線形タンク機関車として61形と60形が製造され、流線形の専用客車を牽引、もしくは推進する形でベルリン - ドレスデン間やハンブルク - リュベック間などで運用された。1939年には01形や03形の増備車を改設計した01.10形と03.10形が流線形車体で製造されたが、第二次世界大戦の勃発により01.10形は55両、03.10形は60両で製造を中止した。このほかにも06形や19.10形といった流線形蒸気機関車が試作されたが、第二次世界大戦の影響もあって充分な成果を出さずに終わった[33]

LNERA4形蒸気機関車「マラード」、蒸気機関車の世界最高速度記録を持つ

イギリスでは流線形列車の開発は1934年にグレート・ウェスタン鉄道(GWR)が比較的低速のレールカーを導入したことや、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)が流線形のA4形蒸気機関車の牽引する「シルバー・ジュビリー」の運転を開始したことに始まる。この目的で製造されたA4形蒸気機関車4468号機「マラード」は、1938年に203 km/hで走行し、蒸気機関車としての世界最高速度記録を達成した。GWRもLNERへの対抗から1935年にキング級とカースル級の各1両を流線形に改造したが、改造が応急的であったこともあり短命に終わった。同じくLENRに刺激されたロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(LMS)も1937年に流線形のプリンセス・コロネーション級蒸気機関車を導入している。サザン鉄道(SR)は1941年にマーチャント・ネイビー級、1945年にはウェストカントリー級(1946年以降の製造分はバトル・オブ・ブリテン級)と流線形蒸気機関車を製造したが、その流線形は空気抵抗の削減より客車用の洗浄機で洗車を行うことを目的とした特異なものであった[34]

フェッロヴィーエ・デッロ・スタート(イタリア国鉄)では3両編成のETR200を流線形電車として開発した。開発は1934年に始まり、1937年から運行された。1937年12月6日ローマ - ナポリ間の走行中、カンポレオーネとチステルナの間で201 km/hを達成した。1939年にETR212は203 km/hを出した。ボローニャからミラノまでの219 kmの距離を77分で走行し、平均速度は171 km/hに達した。

オランダ鉄道では、流線形の34型電気式ディーゼルカーを3両編成で1934年に導入した。これの電車方式である36型は1936年に運行を開始した。34型を基礎に、1940年にはDE5型が最高速度160 km/hの5両編成の電気式ディーゼルカーとして完成した。試運転では、DE5型は175 km/hを達成した。この年、これに似た電車である40型も初めて製造された。

アメリカ合衆国

世界恐慌による急激な売り上げ減少に直面して、アメリカの鉄道は軽量材料で製造された流線形車両に目を向けることになった。速度を出すために流線形にし、蒸気機関車ではなく内燃機関を使うことを考えた[35]。アメリカの初期の流線形車両としては、ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形(リトル・ジップの愛称があり、シティ・オブ・サリナとして1934年から1941年まで営業運行した)と、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道のバーリントン・ゼファーがある。ゼファー(後に他のゼファーと区別するためにパイオニア・ゼファーと名づけられた)の設計の方が先に始まったが、電気式ディーゼル推進システムの先進的な設計のためにM-10000形にくらべて製造に長く時間がかかった。M-10000形は石油蒸留物という灯油に似た燃料を使い点火プラグを使用したエンジンで走行していた。ゼファーはステンレス鋼で、M-10000形は航空機にも使われるジュラルミンでできており、当時の蒸気機関車と一般的な客車にくらべてかなり軽かった。両者とも、1933年から1934年にかけてのシカゴ万国博覧会での目玉であった。

1934年5月26日に、デンバーからシカゴへの走行でゼファーは速度記録を達成した。この間を13時間で走行し、最高速度は112.5マイル毎時(181.1 km/h)、平均速度は77.6マイル毎時(124.9 km/h)に達した。この走行で消費した燃料は14.64ドル分であった(当時1ガロンあたり4セント、同様の走行を2004年に行ったならば550ドルから650ドル程度)。

各種のゼファーは、バッドによって製造されていた。パイオニア・ゼファーの投入後は、ツイン・シティーズ・ゼファーと名づけられた同様の設計の2編成が、シカゴとミネアポリスセントポール(ツインシティ)の間を結んでいた。この2本の列車は導入時に、広告戦略目的で2本の並行した線路で双子を乗客として乗せてミネソタ州へ運転された。数年後、ゼファーはわずかに異なる設計の列車に置き換えられた。

ガルフ・モービル・アンド・ノーザン鉄道のリベル(Rebel)は軽量編成の流線形車両であったが、連接車ではなかった。オットー・クーラー設計により、アメリカン・カー・アンド・ファウンドリーが電気式ディーゼルの機構を製造して、1935年7月10日に運行を開始した。

ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のプレジデント級蒸気機関車、ニューヨークとワシントンD.C.を結ぶ「ロイヤル・ブルー」を牽引しているところ
ヘンリー・ドレイファスがデザインし20世紀特急に使用されたニューヨークセントラル鉄道Jクラス蒸気機関車

ステンレス鋼を使用した列車のスタイルの成功は、まだ蒸気機関車に拘っていたほかの鉄道にも影響した。この時期、旅客にアピールするために多くの蒸気機関車が流線形にされたが、こうした機関車では効率を改善する効果は薄かった。にもかかわらず、こうした機関車の中には非常に高速で走ったものもあり、定期運行で120マイル毎時(193 km/h)に達したものもあるといわれている。ニューヨーク・セントラル鉄道20世紀特急やエンパイア・ステート・エクスプレスに使用されたハドソン型蒸気機関車や、ミルウォーキー鉄道がハイアワサを牽引するために専用に製造した機関車、ペンシルバニア鉄道のデュープレックス機関車であるT1形やユニオン・パシフィック鉄道のフォーティー・ナイナー牽引機などが挙げられる。

日本

国鉄C53形蒸気機関車43号機
国鉄C55形蒸気機関車21号機

流線形の流行は日本にも影響した。 1929年 (昭和4年)に鉄道省(国鉄)は、C51形のうちの1両であるC51 61を半流線型に試験改造、1934年(昭和9年)にはC53形のうちの1両を流線形に改造することを決定しC53 43が選ばれた。しかしC53形の改造を担当した島秀雄は、当時の日本の列車は最高でも100 km/hを超えることがないため、空気抵抗を減らす実質的な効果はほとんどないと考えていた。そのためこの機関車は、排気を上にそらすような空気流を作り出すことを考えて設計された。改造された機関車は燃料消費や牽引力や除煙効果の比較試験はされなかった[36]

この機関車は一般から大変な好評を博し、つづいて国鉄はC55形21両を流線形で製造することを決定した。また、EF55形電気機関車キハ43000形気動車モハ52形電車も流線形で製造された。当時日本の支配下にあった南満洲鉄道(満鉄)でも、流線形のパシナ型蒸気機関車が設計され、これと統一した設計による客車を用いて特急「あじあ」が運転されたほか[36]ジテ1型ケハ6型ケハ7型といった流線形気動車も導入された。また私鉄でも名鉄3400系電車京阪1000型電車 (2代)が登場している。

流線形蒸気機関車は覆いが付けられているため、検査や修理に多大な手間がかかった。第二次世界大戦の勃発後、労働力の不足によりこの問題は深刻化し、ついに覆いは取り外された状態で運行されることになった[36]

第二次世界大戦後

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国では、自動車や航空機による旅行が広まったために、流線形列車やそれの後継となる高速鉄道はほとんど消滅した。州際通商委員会による1951年の決定の後、自動列車停止装置自動列車制御装置車内信号などの装備が無い列車は79マイル毎時(127 km/h)の速度に制限されることになった[37]。政府の規制により、鉄道会社側の言い分ではほとんど利益を上げることが不可能な長距離路線であっても、旅客営業を続けなければならなかった。こうした規制や、政府が高速道路建設計画に大きな投資をしていたことが、より問題を悪化させたと主張する人もいる。1971年以降、アメリカにおける旅客営業のほとんどはアムトラックにより運行されるようになった。その後、高速鉄道としてアセラ・エクスプレスボストンワシントンD.C.を結ぶ北東回廊に導入された。アメリカ合衆国全体でも多くの地域で新しい高速鉄道の建設が検討されているが、ヨーロッパや日本に比べるとアメリカでは鉄道の利用はあまり一般的ではない。

パイオニア・ゼファーは26年間にわたり300万マイル(480万 km)におよぶ営業運行を終えた後、シカゴ科学産業博物館に収蔵された。M-10000形は他の初期の列車の多くと同様に解体処分となった。1942年に廃車され、そのジュラルミンは軍用機に再利用された。3番目に完成した流線形車両であるフライング・ヤンキー(Flying Yankee)は、運行可能な状態での修復作業が進められている。これは最初のゼファーとわずかだけデザインが異なるものである。

ヨーロッパ

かつてTEEに運用されていた601型、ミュンヘン・ジュートリンクにて
403形、ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス時代

ヨーロッパでは第二次世界大戦後、再び流線形車両の流行があった。ドイツでは、高速気動車(SVT)が戦前よりは低速であったが再度運用された。SVTのうち「クルッケンベルク」編成に基づいて設計されたVT11.5型(後に601型に改称される)がTEEとして国際高速列車に使用された。ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、VT18.6型がやはり国際優等列車用に製造された。1965年から、西ドイツ国鉄は流線形の103型(当初はE03型)電気機関車を開発、定期の高速列車運用に投入した。1973年からは403形を開発、運用を開始した。403形は4両編成の動力分散式の電車で、ボルスタレス台車を装着し車体傾斜機構を備えていた(ただし営業運転ではこの機構は使用されていない)が、当時のドイツ国鉄の輸送事情には適合せず、量産は実施されなかった。1991年からICEが高速鉄道として開業し、ICE1が投入された。

スイス連邦鉄道(スイス国鉄)とオランダ鉄道は、RAm TEEI形(スイス形式)、DE-IV形(オランダ形式)をチューリッヒ - アムステルダム間およびアムステルダム - ブリュッセル - パリ間に投入するために開発した。この列車は1977年カナダのオンタリオ・ノースランド鉄道(Ontario Northland Railway)にも売却され、トロントムースニーを結ぶノースランダー(Northlander)に使用された。スイス国鉄は1961年から、4電源方式のRAe TEEII電車(SBB-CFF-FFS RAe TEE II)をTEEに投入した。

フランス国鉄(SNCF)は鉄軌条式鉄道での当時の世界記録となる最高速度331km/hを1955年3月29日に達成するなど、200km/h超での高速運転の研究に熱意を持って取り組んでいた。しかし、この時期には高速車両への流線形採用に対する関心は薄く、1971年より就役を開始したETG・RTG(チュルボトランと称する一連のガスタービン動車シリーズ)で傾斜角のついた前面デザインを採用、さらに250km/h以上の速度域での運用をねらったTGV001(1972年)以降、本格的な流線形デザインの高速鉄道車両の製作を行うようになった。以後、最新のAGVまでフランスでは流線形車両の開発が継続している。

イタリアは大戦前からの車両を運行すると共に、ETR300型「セッテベロ」、ETR401型、ETR450型ETR600型(ペンドリーノ)、ETR500型などを開発した。

イギリスでは、第二次世界大戦の勃発と共に流線形列車の運行は終了した。戦争中は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道とロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道の流線形蒸気機関車は、保守作業のために流線形部品を取り外して運用されていた。1940年代末から1950年代初めにかけて、戦争の被害と遅れていた保守作業が回復するにつれて鉄道の状態が回復し、本線は高速走行が可能な状態となった。

イギリスでの流線形気動車による最初の実験は「ブルー・プルマン」こと251・261形によって1960年に始まり、1973年に運用から撤退した。この列車は90マイル毎時(140 km/h)で豪華なビジネス向けサービスを提供したが、一般的な列車にくらべてわずかに速いだけで、限定的な成功しか収めなかった。ブルー・プルマンはその後の流線形・振り子式列車の研究につながり、最終的にイギリス全体を運行するインターシティー125の実用化をもたらした。

APT-P

ドイツで403形が開発され、フランスでTGV001が試作されていた1970年代初頭から、イギリスでもAPTと呼ばれる次世代高速鉄道車両の研究開発プロジェクトが推進されていた。このプロジェクトは台車、ブレーキシステム、車体、車体傾斜制御など各要素技術について斬新な要素が盛り込んで開発が推進された。その過程で、試作ガスタービン動車のAPT-E、そして動力集中式電車のAPT-Pが製作され、これらはいずれも特徴的な流線形の前頭部を備えていた。もっともこのAPTプロジェクトは流体ブレーキシステムに致命的な問題を抱えていて実用化には至らず、このプロジェクトで開発された車体傾斜制御技術がイタリアに売却されペンドリーノの実用化に貢献したに留まった。

日本

小田急3000形は風洞を用いて設計された。このデザインが新幹線0系に大きな影響を与えた 小田急3000形は風洞を用いて設計された。このデザインが新幹線0系に大きな影響を与えた
小田急3000形は風洞を用いて設計された。このデザインが新幹線0系に大きな影響を与えた

第二次世界大戦後、日本の鉄道は本線においても動力分散方式の列車を選択するようになった。1949年(昭和24年)に日本国有鉄道(国鉄)は80系電車を送り出し、電車としては初めて長距離列車に使用された。1950年(昭和25年)以降に製造された80系電車の先頭車は流線形を採用していた。1957年(昭和32年)には、小田急電鉄3000形電車を送り出した。外観の設計は航空機用風洞が用いられた。小田急3000形は当時の狭軌における世界最高速度記録である、145 km/hを達成した。電車は、国鉄の80系により長距離運用に適することが示され、小田急3000形により高速走行性能も示した。この経験が最初の新幹線である0系につながった。0系の設計は小田急3000形に強く影響を受けており、同様に風洞を用いて開発された。0系の先頭車はジェット機のDC-8を参考に開発された。200 km/hの速度では0系の空力的な設計は空気抵抗の低減に本質的な影響があったといえる[38][39]

現代の高速列車

すべてではないが、今日の世界中の高速列車は流線形となっており、その速度は次第に向上している。特に、250km以上で走行する高速鉄道車両は、全て流線型デザインを採用している。

流線形の自動車

ラ・ジャメ・コンタント(英語版)号、自動車で初めて100 km/hを超える イタリアの「魚雷形自動車」アルファ・40-60HP(英語版)、メーカーは後にアルファロメオに発展する
ラ・ジャメ・コンタント英語版号、自動車で初めて100 km/hを超える
イタリアの「魚雷形自動車」アルファ・40-60HP英語版、メーカーは後にアルファロメオに発展する

1899年に、自動車として初めて100 km/hを超えたラ・ジャメ・コンタント英語版号は、空気抵抗を明らかに意識したボディを持っていたが、運転手はむき出しとなっていた[40]。1910年代には、フランスのグレゴワール自動車フランス語版が飛行船に範をとった「卵形自動車」を開発したり、イタリアのアルファ(後のアルファロメオ)が「魚雷形自動車」を開発したり、といったことが既に報じられるようになっていた[41]

エドムント・ルンプラーの水滴形自動車

第一次世界大戦中に偵察機のタウベを生産していたエドムント・ルンプラーは、第一次世界大戦後の1921年にルンプラー・トロップフェンワーゲンドイツ語版(水滴形自動車)をベルリンモーターショーに出展した。しかしこれはエンジンが故障がちで、商業的に成功しなかった[42]。合併でダイムラー・ベンツとなる前のベンツもルンプラーからのライセンスで同様の車両を試作し、1924年には飛行船型の流線形車体を持つレーサー車も製作している。しかし飛行船と異なり、下部を船体状に形成した車両は走行時に揚力を発生させてステアリングもブレーキも困難となるため、以後の車両ではこうした造形は採用されなくなった[43]ルーマニアアウレル・ペルスルーマニア語版は、流線形車体の内側に車輪を収容した設計を考案し、1922年にドイツで、1923年にアメリカで特許出願した[44]風洞実験で空気力学を研究していたパウル・ヤーライも、航空機の設計をモチーフとする自動車のボディを設計し、ボディ内部に車輪を収容する流線形車体を提案した。この設計は、メルセデス・ベンツマイバッハアドラーフォルクスワーゲンクライスラータトラなど、多くのメーカーに影響を与えた[40]

1934年にクライスラーから、初めて流線形車体を持つことを前提に最初から設計された量産市販車として、クライスラー・エアフロー英語版が発売された[10]。エアフローは外観が斬新であっただけでなく、モノコック構造の頑丈なボディを持ち、エンジンを従来より前に配置して室内の長さを稼ぎ、後席を車軸から前に出して乗り心地を改善するなど、技術の面でも進歩したものであった。しかし、アメリカの消費者にはエアフローの外観は受け入れられず、発売当初に売れたのみで後に販売が低迷して打ち切られることになった。アメリカでは、翌1935年にフォード・モーターから発売されたリンカーン・ゼファーが大成功を収め、流線形車体が浸透していくことになった[40]。ともあれ、エアフローの発売は、流線形の時代の到来を告げるものとなった[10]

1930年代にはバスにおいてもスタイリッシュな外観を採用したものが現れ[45]、実験によればこれは燃料費を抑える効果があることが示されていた[46]。同様に、キャンピングトレーラーにおいては、エアストリームが流線形スタイルを1930年代から採用している[47]

一方ヨーロッパにおいては、1930年代に次第に流線形車体が浸透しつつあった。1938年にはフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)が登場したが、第二次世界大戦によって本格的な普及は戦後に遅れることになる[48]

アルファロメオ・ジュリエッタSZ2の後部は、カムの理論に基づいて縦に切り落としたようなデザインとなっている

流線形を追求して空気抵抗を低減しようとすると、長い後尾部が必要であると考えられていた。これには限界があり、居住性や後方視界、使い勝手などの点で流線形車体は問題を抱えていた。ドイツのウニバルト・カムドイツ語版は、後部を縦に切り落としたデザインにしても空気抵抗が大きく変わらないことを示し、多くの車がこのデザインで製作されることになった[40]

抗力係数Cd値は、1920年の車では平均して0.8程度であったが、1925年には0.6程度、1930年には0.55程度と着実に下がっていった。風洞試験やコンピューターシミュレーションの技術が発達して空力設計が進歩し、2009年の3代目トヨタ・プリウスではCd値は0.25にまで低減されている。トラックやバスにおいてもCd値は0.5を下回るようになっている[40]

流線形の飛行機

ほぼ流線形胴体を持つパルセヴァル式飛行船

初期の飛行機は、前端にプロペラがあって流線形にしづらかったため、飛行船が先行して流線形となった[4]。飛行機がまだエンジンや操縦士をむき出しにして飛んでいた時期に、飛行船は既にほぼ流線形で、第一次世界大戦時にイギリス海軍が使用した半硬式飛行船のパルセヴァル式飛行船などは、ほぼ完全な流線形船体を持っていた[49]

1913年に、当時の航空機の最高速度記録である200 km/hを突破したフランスのドゥペルデュサン・モノコック・レーサーは、機体が木材と布張りで製作され、主翼をピアノ線による引っ張りで支えてはいたものの、機体が既に流線形になっていた[50]。第一次世界大戦末期のニューポール 29やこれをレーサー機とした29 V、また大戦後のブレリオ=スパッド S.58英語版といった機材も、次第に流線形の機体となり、複葉ながら機体と主翼の取り付け部に気流を整えるフィレットを装着するといった工夫がなされた[51]

ユンカース F.13、全金属製低翼単葉機で流線形の外観を持つ

第一次世界大戦直後に登場した、ドイツのユンカース F.13は、初期の機体を除き機体すべてがジュラルミンで製作され、まだ単葉機が珍しかった時代に低翼の単葉という斬新な形態であった。高翼に比べて低翼の方が、主翼の支持構造、エンジン搭載、降着装置の装着などの点で抗力を抑えられる利点があった。また主翼を支える支柱や張線がない片持式の主翼を備えていた。片持式にするには翼を厚くする必要があるが、厚い翼にして抗力を増しても、揚力も増すために有利とされた[52]

ユンカース F.13は、全金属機体になってもまだ骨格が強度の大半を受け持っており、外板は大きな強度を受け持っていなかった。また外板に波板を使っており、完全な流線形とはいえなかった。金属製の外板にも強度を受け持たせる構造が提案され、ロールバッハ金属飛行機において実際に製作された。しかし空気力学的設計が悪く、あまり成功しなかった[53]

ダグラス DC-3、近代的輸送機の始祖

ロールバッハの社長が1926年にアメリカで講演したことがきっかけとなり、金属製外板による応力外皮構造という考えがアメリカに伝わった。これを受けてボーイングが1934年にボーイング247を投入した。全金属製の応力外皮構造の低翼単葉で、外板は完全に平滑になっており、引き込み脚や可変ピッチプロペラなどの新技術も搭載された。しかし主翼の桁が客室を貫通しており、乗客がそれを跨いで通らなければならないという不便があった[54]。まもなく、より大型の客室を持ち主翼桁の客室貫通もない、ダグラス DC-3が登場した。ボーイング247が旅客定員10名であったところ、DC-3は21名を乗せることができ、洗練された空力構造を持つ機体は、当時の輸送機として決定版となった[55]

その後の旅客機はDC-3に倣った形態をとっており、ジェットエンジンによる推進に変わってより高速になって、空気抵抗の低減はさらに重要なものとなっている[56]

流線形の船

極度に流線形化された外観を持つアメリカ合衆国のフェリー「カラカラ英語版

においては、多層の船室や甲板が設けられると、この部分に風があたり、速力を低下させたり操縦を困難にしたりといった問題がある。しかしこうした抵抗は、水の抵抗に比べるとはるかに少ないものである。したがって船においては水線下がもっとも流線形に近い形状にされており、上部の構造物に特別な工夫が凝らされることは少なかった[57]。用途の面で便利で経済的という理由で、角ばった直方体のような形状の上部構造が採用されてきた[58]

しかし、他の交通機関において流線形が流行したことの影響を受けて、1930年代くらいから船の上部構造物も丸みを付けるものが現れた。甲板室の前面に丸みを持たせ、その丸みの程度を大きくし、やがて両舷側の角にも丸みを付けるようになった[59]。1935年(昭和10年)に建造された東京湾汽船橘丸は、屋根にも丸みを持たせ、操舵室と乗組員室は後部にいくにつれて次第に幅を狭くし高さを低くする流麗な姿となり、流線形化が徹底されるようになった[60]。アメリカ合衆国においては、自動車フェリーのカラカラ英語版が船体全部に渡って完全な流線形をもって建造された。流線形化によって船体全体の重量を軽減し、表面積を30パーセント削減し、風抵抗も減少したとされている[61]

船の流線形化によって得られる利益は、建造費用の増加、利用上不便なスペースの増加、居住・作業上の不便等に比べるまでもないほど小さいとされる。しかし旅客船においては、外観を整えることで営業面では効果が得られることもある[59]

脚注

  1. ^ この機関車は流線形機関車として1938年に青と銀の塗装で製造され、アメリカ合衆国にわたり3,000マイルにわたる展示走行と1939年ニューヨーク万国博覧会への出品を経て、1942年にイギリスに戻った。流線形カバーは1947年に保守作業の容易を図って撤去された。2009年に再度流線形化され、ヨークイギリス国立鉄道博物館に保存展示された
  2. ^ 『流線形列車の時代』p.327
  3. ^ 『流線形列車の時代』p.328
  4. ^ a b 「流線形とモダンデザイン」p.56
  5. ^ 『流線形列車の時代』p.3
  6. ^ 『流線形列車の時代』pp.4-5
  7. ^ 『流線形列車の時代』pp.5-6
  8. ^ a b 『工業デザイン:理論と実際』p.250
  9. ^ 『流線形の考古学』pp.20 - 54
  10. ^ a b c 『流線形の考古学』pp.77 - 85
  11. ^ 「流線形とモダンデザイン」pp.57 - 58
  12. ^ 『流線形の考古学』pp.101 - 118
  13. ^ 『流線形の考古学』pp.118 - 124
  14. ^ 「流線形とモダンデザイン」pp.60 - 62
  15. ^ 『工業デザイン:理論と実際』pp.267 - 279
  16. ^ 「流線形と其の應用に就いて」pp.288 - 289
  17. ^ 「流線形と其の應用に就いて」pp.289 - 290
  18. ^ 『流線形の考古学』pp.66 - 67
  19. ^ a b 『流線形の時代』pp.18 - 21
  20. ^ 『流線形の考古学』pp.26 - 29
  21. ^ 「流線形と其の應用に就いて」p.290
  22. ^ 『流線形の時代』p.21
  23. ^ a b 『流線形の時代』pp.101 - 102
  24. ^ 「わが国における流線型電車・気動車の50年」p.17
  25. ^ 「流線形に對する疑問」p.27
  26. ^ 『流線形列車の時代』pp.10-11
  27. ^ 『流線形列車の時代』pp.14-16
  28. ^ 「海外の流線型車両」p.23
  29. ^ このため戦争中に覆い(特に足回り)を撤去されたものも多い
    (『ビジュアル図鑑 世界鉄道全史』、スタジオタッククリエイティブ、2019年、ISBN 978-4-88393-853-7、p.150-151「ヨーロッパの流線形蒸気機関車」)
  30. ^ デイヴィット・ロス『世界鉄道百科図鑑』小池滋・和久田康雄訳、悠書館、2007年、ISBN 978-4-903487-03-8、p.163-165「A4型 4-6-2(2C1)」
  31. ^ 『ビジュアル図鑑 世界鉄道全史』、スタジオタッククリエイティブ、2019年、ISBN 978-4-88393-853-7、p.272。
  32. ^ 齋藤晃『狭軌の王者』イカロス出版、2018年。ISBN 978-4-8022-0607-5、p.156。
  33. ^ 前里孝「ドイツの流線形蒸気機関車」『とれいん』1982年8月号 P.68-71
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  35. ^ American Experience: Streamliners (Transcript)”. PBS.org (2000年). 2010年8月7日閲覧。
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  37. ^ Ask Trains from November 2008”. Trains Magazine (December 23, 2008). December 29, 2009閲覧。
  38. ^ 「わが国における流線型電車・気動車の50年」p.16 - 22
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  40. ^ a b c d e 【技術革新の足跡】デソート・エアフロー――空気を形に(1934年)”. トヨタ自動車 (2015年5月15日). 2024年10月8日閲覧。
  41. ^ 『流線形の考古学』pp.19 - 21
  42. ^ 『流線形の時代』pp.8 - 9
  43. ^ 『流線形の時代』pp.9 - 10
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  47. ^ エアストリームジャパン:エアストリームの歴史”. エアストリーム. 2024年10月13日閲覧。
  48. ^ 『流線形の時代』pp.65 - 70
  49. ^ 『流線形の時代』pp.26 - 27
  50. ^ 『流線形の時代』pp.30 - 31
  51. ^ 『流線形の時代』pp.33 - 35
  52. ^ 『流線形の時代』pp.46 - 49
  53. ^ 『流線形の時代』pp.50 - 51
  54. ^ 『流線形の時代』pp.53 - 54
  55. ^ 『流線形の時代』pp.55 - 57
  56. ^ 「流線形とモダンデザイン」p.57
  57. ^ 『日本の造船』pp.54-55
  58. ^ 『日本の造船』p.204
  59. ^ a b 『日本の造船』p.205
  60. ^ 『日本の造船』p.206
  61. ^ 「流線形渡船Kalakala號」p.751

参考文献

ウェブサイト

書籍

  • 小島英俊『流線形列車の時代』NTT出版、2005年4月25日。ISBN 4-7571-4112-2 
  • 山高五郎『日本の造船』ポプラ社、1957年。doi:10.11501/1630109 
  • 上野喜一郎『船の歴史 第2巻(近代篇(船体))』天然社、1954年。doi:10.11501/1707237 
  • ヴァン・ドレン 著、勝美勝・松谷疆 訳『工業デザイン:理論と実際』白揚社、1962年。doi:10.11501/2495631 
  • 原克『流線形の考古学』講談社、2017年12月11日。ISBN 978-4-06-292472-6 
  • 佐貫亦男『流線形の時代』グリーンアロー出版社、1993年9月20日。ISBN 4-7663-3154-0 

雑誌記事・論文

  • とれいん』1982年8月号 No.92 特集:流線形
  • 「流線形渡船Kalakala號」『機械学会誌』第222号、日本機械学会、1935年10月、751頁。 
  • 窪田太郎「海外の流線型車両」『鉄道ピクトリアル』第426号、電気車研究会、1984年1月、23-28頁。 
  • 宮島久雄流線形とモダンデザイン」『武庫川女子大学生活美学研究所紀要』第9巻、武庫川学院、1999年10月、53-64頁。 
  • 江藤静也「流線形と其の應用に就いて」『科学雑誌』第20巻第6号、科学の世界社、1934年6月、288-293頁、doi:10.11501/1527297 
  • 生方良雄「わが国における流線型電車・気動車の50年」『鉄道ピクトリアル』第426号、電気車研究会、1984年1月、16-22頁。 
  • 櫻井武平「流線形に對する疑問」『家政理学』第3巻第2号、大阪府女子専門家政理学会、1935年7月、22-27頁。 

外部リンク