コンテンツにスキップ

仁堀連絡船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仁堀航路から転送)
地図
1.仁方港2.堀江港3.呉駅、○印は地図の中間点

仁堀連絡船(にほりれんらくせん)とは、日本国有鉄道広島県呉市仁方港と、愛媛県松山市堀江港との間を運航していた鉄道連絡船。仁方港は呉線仁方駅近く、堀江港は予讃本線堀江駅近くにそれぞれ位置していた。

概要

[編集]

利用が低迷したことから、戦後唯一赤字を理由に廃止された国鉄の航路である(他の航路廃止は橋梁やトンネルの開通で代替された事によるものである)。

もともと、戦後の混乱期に輸送力不足に陥っていた宇高連絡船の補助航路として開かれたものであるが、その本来の目的を果たしていたのは戦後の短期間に留まり、以後は鉄道連絡船としての存在意義の薄いまま、ローカル航路として推移した。終戦から5年経った1950年10月の時刻表では既に1日1往復となっている(その後、1日2往復体制となった)。このような航路であったため、専ら大島連絡船の余剰船で運航されていたという。あまりにもマイナーな立地で、国鉄職員でも知らない者が多かった。

連絡船の便数が少なく、双方の港も駅から離れており、両港での接続列車は呉線の電化前に東京駅 - 広島駅間の急行安芸」が仁方駅に停車していた[1]ことを除くと基本的に普通列車のみで、航路に合わせた時刻設定にもなっていなかった。列車の車内放送では連絡船接続の案内すらなかったという。但し、日本交通公社から発売されていた日本国有鉄道監修時刻表には仁方・堀江両駅における接続列車の時刻が掲載されていた。

このため実際に列車乗り継ぎで鉄道連絡船として利用する乗客は事実上は所謂乗り鉄しかおらず、トラックなどのフェリー輸送が主であったが、のちには仁方港に近い呉郊外の阿賀港から堀江まで民営のカーフェリー(呉・松山フェリー)が頻発するようになり、苦戦を強いられた。

最後に就航した瀬戸丸はカーフェリー仕様の新造船であったが、国鉄と造船会社の間で建造費を巡ってトラブルが起き、就航が約半年遅れるという珍しいエピソードがあった。なお、航路廃止によりわずか7年で用途廃止となった瀬戸丸は売却されている。

仁方・堀江両港には航路の記念碑が建立されている。また、呉・松山フェリーはしまなみ海道の開通やその後の状況の変化により、仁堀航路の廃止からちょうど27年後の2009年7月1日に廃止となった。

歴史

[編集]

航路詳細

[編集]
  • 仁方・堀江間 実キロ:37.9km  営業キロ:70.0km(民間航路との運賃調整を意図した擬制キロ)
仁方港は仁方駅から徒歩12分、堀江港は堀江駅から徒歩5分。
1978年当時、1日3往復・所要1時間40分。当時の使用船舶は瀬戸丸。
1981年当時の平均利用実績は、1日(2往復)に乗客119人、自動車10台。

運賃・料金

[編集]

運賃・料金はすべて廃止時のものである。普通運賃はこども半額。

  • 普通運賃:940
  • 自動車航送料金
    • 車の長さが3mまでが3,700円、4mまでが4,800円、5mまでが6,100円、6mまでが6,700円、7mまでが7,700円、8mまでは8,800円、9mまでは9,700円、10mまでは10,700円、11mまでは11,900円、12mまでは13,300円で、航送料金には運転する人1名の運賃が含まれていた。
  • 営業キロが100km未満にもかかわらず、宇高連絡船・宮島連絡船と違い定期券回数券は発売されなかった。

仁堀連絡船ときっぷ

[編集]

最長片道切符ルートとしての仁堀連絡船

[編集]

本州と四国を結ぶ国鉄航路が仁堀連絡船と宇高連絡船の2本存在していたため、同じ区間を2度通ることなく四国島内を通過して旅行することが可能であった。したがって、この2本の航路を通ることで、国鉄の経営する最長ルート(最長片道切符のルート)に四国島内の路線を組み入れることができた。実際、宮脇俊三が1978年に2つの連絡船を利用した片道切符での旅を実行し、仁堀連絡船の様子も『最長片道切符の旅』で記している。また、東北新幹線開業の1982年6月23日から当航路廃止の1982年6月30日までの1週間ほどの間は、このような切符の片道経路の長さが史上最も長くなっていた期間であるが、対象期間が短かったため、この最長経路は南から北に向かって実行する場合のみ実行可能なものであった。

仁堀連絡船の廃止以降は現在に至るまで本州と四国を結ぶ国鉄・JR路線は宇高連絡船→瀬戸大橋線の1本しかなく、最長片道切符は同じ区間を2度通ることができないので、最長片道切符では四国を経由できなくなっている。

なお、現在では仮に仁堀連絡船が存続していたとしても、1988年4月1日以降は中村線窪川若井間が土佐くろしお鉄道に移管されてしまったため、実質的に宇多津高松佐古多度津堀江のルートしか使用できない。ただし、同区間で連絡運輸を用いる場合は土讃線高知・窪川方面・予土線を経由することもできる。

青春18のびのびきっぷでの利用

[編集]

1982年春から発売された「青春18のびのびきっぷ」(現・青春18きっぷ)は国鉄の鉄道連絡船の普通船室が利用可能であったため、当連絡船に乗船することも可能であった。

なお、青春18のびのびきっぷが最初に発売された1982年春シーズンが同年5月31日で終了したあと、夏シーズンが始まる同年7月20日より前に廃止されたため、青春18のびのびきっぷで実際に仁堀連絡船に乗船できたのは最初のシーズンのみであった。

船舶

[編集]

運航開始時および運航開始直後に就役した船舶

後年に就役した船舶

  • 五十鈴丸 - 元大島連絡船海軍の魚雷運搬船を戦後に旅客船化改造したもの。1951年に仁堀連絡船で就役。1964年に宮島連絡船へ転属。
  • 安芸丸 - 1961年就航。元宮島連絡船「大島丸」。1965年に仁堀連絡船で就役し改称された。1975年に大島航路に復帰し翌年の同航路の廃止まで使用された。
  • 瀬戸丸 - 1975年就航。仁堀連絡船唯一の新造船。1982年の廃止時まで使用されたのち民間に売却された。

脚注

[編集]
  1. ^ 宇田賢吉・細川延夫 「“安芸”呉線を行く」交友社「鉄道ファン」1964年6月号、No.36、p40を参照
  2. ^ a b “日本国有鉄道公示第70号”. 官報. (1982年6月29日)