コンテンツにスキップ

迅鯨 (潜水母艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
迅鯨
基本情報
建造所 三菱長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 水雷母艦潜水母艦練習艦→潜水母艦→練習艦
級名 迅鯨型
艦歴
計画 八八艦隊案
起工 1922年2月16日[1]
進水 1923年5月4日[1]
竣工 1923年8月30日[1]
最期 1944年10月10日[2]、沖縄県瀬底島にて沈没。
除籍 1944年11月10日
その後 1952年、サルベージ後に解体。
要目(竣工時)
基準排水量 5,160 英トン
公試排水量 7,678 トン
全長 125.4 m
水線幅 16.215 m
吃水 6.283 m
機関 パーソンズ式ギアードタービン×2基
主缶 ロ号艦本式缶×6基
出力 7,500 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 16 ノット(計画)[注釈 1]
燃料 石炭:402トン
重油:2,047トン[4]
航続距離 10,400 海里/14ノット
乗員 364名
兵装
搭載機 水上偵察機1機(1930年以降)[注釈 2]
その他
  • 補給用重油:1,900トン
  • 予備魚雷40本[5]
  • 爆雷投下台[6]
テンプレートを表示

迅鯨(じんげい)は、大日本帝国海軍潜水母艦[7]迅鯨型潜水母艦の1番艦[8]。艦名はの別名に由来する[9]。日本海軍の軍艦としては御召艦・迅鯨[10]に続いて2代目[11]

概要

[編集]

日本海軍が三菱長崎造船所で建造した潜水母艦[12][13]。廃艦になった八八艦隊戦艦巡洋戦艦の機関部を流用し[14]1923年(大正12年)8月30日に水雷母艦として竣工[15][2]、翌年12月1日に潜水母艦へ類別変更された[16][17]。姉妹艦・長鯨と共に[18]、日本海軍が最初に保有した本格的潜水母艦である[19][20]

昭和時代に伊一型潜水艦などの大型潜水艦が充実すると能力不足が顕著となり[19][21]1938年(昭和13年)以降は新型潜水母艦の大鯨剣埼に潜水戦隊旗艦を譲り[20][22]、長鯨とともに練習艦[23]や工作艦[14]になった。だが大鯨が空母龍鳳[24]、剣埼が空母祥鳳に改造されたため[25]、迅鯨・長鯨とも再び潜水戦隊旗艦に返り咲いた[23]1940年(昭和15年)11月15日、迅鯨は第四艦隊麾下の第七潜水戦隊旗艦となった[26]

太平洋戦争開戦時には、引続き第四艦隊隷下の第七潜水戦隊旗艦であった[27]。おもにトラック泊地に停泊し、麾下の呂号潜水艦を支援した[28]1942年(昭和17年)7月14日、第七潜水戦隊は新編の第八艦隊に編入され[29]、迅鯨もラバウルに進出した[17]1943年(昭和18年)1月上旬、内地に帰投する[30]。1月15日より第七潜水戦隊旗艦を長鯨に譲り[31][32]、以後は瀬戸内海で潜水艦部隊の練習艦として過ごした[30]。同年末には長鯨も内海西部に帰投し、共に練習艦任務に従事した[31]

1944年(昭和19年)になると、迅鯨型も輸送任務に投入された[14][31]。9月19日、迅鯨は沖縄方面輸送作戦に従事中、米潜水艦の雷撃を受けて大破する[17][33]沖縄本島本部半島西端沖の瀬底島で係留中、10月中旬に米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した[34]十・十空襲[35]

艦歴

[編集]

建造経緯

[編集]

迅鯨型は、大正時代になり大型化・高性能化する潜水艦の母艦として[36]八八艦隊案の水雷母艦として計画された[12][23]ワシントン軍縮条約により八八艦隊は建造中止となったが、迅鯨型は軍縮化の新軍備計画の一部として建造されることになった[12]。また民間技術者と建造能力維持のため、2隻(迅鯨、長鯨)とも三菱長崎造船所での建造になった[37]。この際、軍縮下で建造費を節約するため、八八艦隊主力艦用として製造されていたボイラー(艦本式ロ号混燃罐)を流用した[37]。当初計画では、迅鯨のボイラー6基は天城型巡洋戦艦4番艦高雄用のものを流用予定だった[38][注釈 3]

迅鯨は1921年(大正10年)2月17日、日本海軍は建造予定の水雷母艦を迅鯨(ジンゲイ)と命名する[41]。3月3日、建造予定の迅鯨を水雷母艦に類別した[21][42]1922年(大正11年)2月16日、三菱長崎造船所は艦船3隻(迅鯨、川内第三駆逐艦(朝風)[43])を同時に起工した[44][注釈 4]1923年(大正12年)5月4日、迅鯨は進水した[46][47]。同年8月30日[18]、水雷母艦として竣工した[11][48]佐世保鎮守府籍となった。9月1日に関東大震災が発生し、迅鯨も救援任務に投入された。10月1日、第一艦隊麾下の第一潜水戦隊に編入される[49]。同年12月1日、末次信正少将(当時、軍令部第一課長)が第一潜水戦隊司令官に就任する[50]。当時の一潜戦は、防護巡洋艦筑摩、迅鯨、第4潜水隊、第6潜水隊であった[51]

太平洋戦争以前

[編集]

1924年(大正13年)12月1日の改訂で水雷母艦の類別は潜水母艦と変更され、迅鯨もそのまま移行し[16][52]、名実共に潜水母艦となった[21]。当時の第一潜水戦隊は、軽巡洋艦北上、迅鯨、第6潜水隊、第24潜水隊、第26潜水隊となった[53][54]。末次少将(第一潜水戦隊司令官)は革新的訓練指導をおこない、訓練終了後の研究調査は迅鯨(旗艦兼母艦)で行われた[55]。主に中国方面で活動した。

昭和に入り伊号潜水艦(巡潜型)や水上速力が20ノットを越える海大潜が潜水戦隊の主力となると[56][57]、呂号潜水艦の潜水戦隊旗艦・母艦を想定していた迅鯨型では能力不足となった[22][58]。このため潜水戦隊旗艦には5,500トン型巡洋艦(軽巡由良鬼怒五十鈴など)や新型の潜水戦隊用巡洋艦(大淀型[21][59]が配備もしくは建造された[19][22]。また迅鯨型の艦齢も15年を超え、旧式化が顕著になった。新鋭潜水母艦の大鯨[60]剣埼[61]が相次いで竣工すると、潜水戦隊旗艦の座を譲る。1938年(昭和13年)9月4日、第一潜水戦隊旗艦は迅鯨から伊号第七潜水艦に変更された[62]。翌5日、第一潜水戦隊に大鯨が編入され[63]、同艦は9月8日より第一潜水戦隊旗艦となった[64]。迅鯨は9月15日より第五艦隊付属第2根拠地隊に配備された[2]1939年(昭和14年)11月より練習艦となり[23]、航海学校(運用術練習艦)、兵学校、機関学校生徒用の練習艦として重宝される[65]。また日中戦争では工作艦としても利用されたという[14][66]

しかし新鋭潜水母艦3隻(大鯨、剣埼高崎〈未完成、のちの瑞鳳〉)は有事の際に空母へ改造する予定であり[36]、この3隻は順次軽空母へ改造される[22][67]。新鋭潜水母艦の空母改装計画により、迅鯨型2隻(迅鯨、長鯨)は翌年11月から再び潜水戦隊旗艦に戻ることとなる。さらに事前の予定どおり、大型貨客船を徴傭して特設潜水母艦とした[68][69]

なお、迅鯨型2隻は1940年(昭和15年)10月11日に横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加した[70]。同年11月15日、日本海軍は第四艦隊を増強する[71]第十八戦隊鹿島〈第四艦隊旗艦〉[72]天龍龍田)、第十九戦隊沖島常磐)、第六水雷戦隊(軽巡夕張第29駆逐隊第30駆逐隊)等に加えて、迅鯨と呂六十型潜水艦9隻で第七潜水戦隊が編成され[注釈 5]、迅鯨は同潜水戦隊旗艦となった[2](司令官佐藤勉少将)[74]1941年(昭和16年)1月29日に横須賀を出港し[2]、南洋方面に進出する。以後、第七潜水戦隊は第四艦隊各隊・各艦と共に中部太平洋方面で行動した[75]

太平洋戦争前期

[編集]

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、迅鯨はひきつづき第四艦隊(司令長官井上成美中将、独立旗艦「鹿島」)麾下の第七潜水戦隊(母艦〈迅鯨〉、呂六十型潜水艦9隻[76]第26潜水隊第27潜水隊第33潜水隊[77]旗艦であった[78]。南洋部隊指揮官(第四艦隊司令長官井上成美中将)の任務は、ウェーク島攻略、グアム島攻略、ギルバート諸島占領、ハウランド島方面掃蕩であり[79]、南洋部隊潜水部隊も各作戦に投入された[80]。迅鯨はクェゼリン環礁に進出し[78]潜水艦作戦の支援を行った[81]。第七潜水戦隊司令官(南洋部隊潜水部隊指揮官)として迅鯨に将旗を掲げていた大西新蔵少将は、呂六〇型潜水艦の艦内環境は最悪で、南洋での長期行動には堪えられなかったと回想している[82]。また迅鯨乗組員の錬度も低く、前任が戦艦長門の艦長だった大西少将は「潜水艦育ちの人達には、凡そ縁遠い訓練なるが如く、司令官自ら砲戦を主宰するの要なり」と述べている[83]ウェーク島攻略作戦実施中[84]、第七潜水戦隊は呂号第62潜水艦呂号第66潜水艦の衝突事故により、呂66号を喪失した[85][86]。12月29日、ウェーク島攻略戦に参加していた呂号第60潜水艦は任務を終えてクェゼリンに帰投した[87]が、同環礁の外北端で座礁する[88]。迅鯨(第七潜水戦隊旗艦)は直ちに出動して救難を試みたが成功せず[89]、呂60号は処分された[90]。呂60号の全乗組員は迅鯨に移乗した[91]

1942年(昭和17年)1月7日[2]、迅鯨はトラック泊地に到着した[92]。同月中旬以降、第七潜水戦隊(第27潜水隊、第33潜水隊)はトラック泊地を出撃する[93]。南洋部隊(第六水雷戦隊、第六戦隊、第十八戦隊、第十九戦隊)等によるニューブリテン島ラバウルニューアイルランド島カビエン攻略作戦を支援し、また同方面の哨戒に従事した(ラバウルの戦い[94][95]。2月1日に米空母ヨークタウンエンタープライズマーシャル諸島空襲した際には[5]、トラック泊地に停泊しており無事だった[96][97]。 2月20日、空母レキシントンを基幹とする第11任務部隊がラバウル東方に出現したため、トラック泊地の南洋部隊主隊(鹿島、沖島、第六戦隊、第十八戦隊など)は対応のため出撃する[98]ニューギニア沖海戦[99]。迅鯨もトラック泊地を出撃し、23日に帰投した[2][97]。2月27日、迅鯨はトラック泊地を出港[97]ポナペ、クェゼリン、サイパン方面で行動した[100]。3月28日にサイパンを出発[100]、4月1日[101]横須賀に到着した[2][102]

4月10日、日本海軍は第二段作戦に対応して戦時編制の改訂を実施する[103]。姉妹艦長鯨が旗艦を務めていた第六潜水戦隊は解隊され(長鯨は呉鎮守府部隊編入)、同隊所属だった第21潜水隊が第七潜水戦隊に編入された[104]。第七潜水戦隊(迅鯨、第21潜水隊、第26潜水隊、第33潜水隊)は、引き続き第四艦隊に所属して作戦行動をおこなう[105][106]。この時点で作戦従事中の隊は、第21潜水隊だけであった[107]。4月18日、アメリカ海軍はドーリットル空襲を敢行する[108]。迅鯨は横浜浅野ドックで同空襲に遭遇した[2]。迅鯨に被害はなかった[109][注釈 6]。 4月22日には横須賀へ移動した[2][102]。5月2日に横須賀を出港、5月9日トラック泊地に進出する[111][112]。以降、南洋部隊潜水部隊として麾下潜水隊を率い、トラック方面の警備に従事した[113]。6月5日付で第七潜水戦隊司令官は大西少将から吉富説三少将に交代した[114]

7月14日に第八艦隊が新編され、第七潜水戦隊は同艦隊に編入された[115]。軍隊区分では第八艦隊は外南洋部隊となった[116]。また第七潜水戦隊は「迅鯨」、第十三潜水隊、第二十一潜水隊にかわった[117]。当時の迅鯨は、トラック泊地に停泊していた[118]

8月7日、米軍はツラギ島およびガダルカナル島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いがはじまる[119]。8月10日、迅鯨はトラック泊地を出動する[120]。8月13日にラバウルへ進出[2]、以後は同地で作戦支援を行った[121]。8月21日、連合艦隊は第三潜水戦隊(当時、外南洋部隊指揮下で行動中)と第七潜水戦隊(外南洋部隊所属)を先遣部隊(第六艦隊)に編入、潜水艦部隊の統一指揮を下令した[122]。この命令により、第七潜水戦隊は先遣部隊(指揮官小松輝久第六艦隊司令長官、旗艦「香取」)の指揮下で行動することになった[122]。 9月時点での第七潜水隊は、旗艦迅鯨の他、第13潜水隊(伊121、伊122)、第21潜水隊(呂34)となった[123][124]

10月4日の連合艦隊命令作第25号により[125]、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官、旗艦香取)は兵力部署を改定、第七潜水戦隊は丁潜水部隊となった[126][127]。11月8日、迅鯨はラバウルを出航した[2]。11月11日、トラック泊地に到着した[2]。丁潜水部隊は整備をおこなう[128]。12月15日、呂号第百潜水艦は呉潜水戦隊から第七潜水戦隊に編入される[129]呂百型潜水艦[130]の配備にともない、酸素魚雷の調整設備をもった長鯨の第七潜水戦隊編入がきまった[131]

太平洋戦争中期以降

[編集]

1943年(昭和18年)1月6日[2]、迅鯨(丁潜水部隊指揮官=第七潜水戦隊司令官座乗)は内地回航となる[132]。指揮官不在の間、丁潜水部隊は先遣部隊指揮官(第六艦隊長官)の直率部隊となった[133]。1月13日[2]、迅鯨は呉に帰投した[17][134]。1月15日、第七潜水戦隊旗艦は長鯨に変更され[135][136]、同艦はトラック泊地経由でラバウルに進出した[17][137]。迅鯨は呉鎮守府練習潜水隊に編入され[2][32]海軍潜水学校練習艦として瀬戸内海での訓練に従事した[30]。4月1日、呉潜水戦隊は戦時編制から除かれ、第一艦隊隷下の第十一潜水戦隊が新造潜水艦の訓練と練成任務を継承した[138]

10月16日、迅鯨は呉を出航する[2]。潜水艦の雷撃により損傷した給糧艦間宮[139][注釈 7]の曳航作業を実施することになった[141]。間宮は朝風丸に曳航されて佐伯に到着しており、迅鯨は間宮曳航を引き継ぐ[142]。駆逐艦追風[140]、海防艦壱岐等に護衛され[143]、17日に同地を出発、19日呉に入港した[2][144]

11月1日[145]、日本海軍は呉軍港で未完成のまま放置されていた改鈴谷型重巡洋艦伊吹(第300号艦)[146]の空母改造工事を佐世保海軍工廠で実施することを通達した[注釈 8]。迅鯨は伊吹の曳航を担当することになった[149]。11月中旬、海防艦「壱岐」などに護衛され、迅鯨は伊吹を曳航して呉から佐世保へと移動する[150]。呉から関門海峡を抜け、九州北岸を回る航路であった[151]11月22日、佐世保に到着した[152]

11月25日、第十一潜水戦隊は第六艦隊(旗艦香取)に編入され、兵力部署では第十一潜水部隊となる[153]。12月1日、潜水艦乗組員急速大量養成のため、迅鯨や呂号第五百潜水艦[154]などにより呉潜水戦隊が再編された[153]。迅鯨は呉潜水戦隊旗艦となった[155]。また迅鯨はコンクリート船甲標的など他部隊の実験や訓練に協力することもあった[156]。同年末には長鯨も瀬戸内海に帰投し、迅鯨型は共に練習艦任務に従事した(長鯨は第十一潜水戦隊所属)[6]

1944年(昭和19年)7月28日、大本営海軍部(軍令部)は大海指第438号により連合艦隊と呉鎮守府から軍艦4隻(長良、長鯨、鹿島、迅鯨)を佐世保鎮守府の麾下に加え、第二航空艦隊(司令長官福留繁中将)[157]の南西諸島方面物資輸送を命じた[158][159]。これにより、各艦は沖縄方面への輸送任務に就く[160][161]第四海上護衛隊より、駆潜艇と駆逐艦「海威[注釈 9]が護衛についた。迅鯨型2隻は、南西諸島方面と・佐世保を三往復する[163][注釈 10]。この時、沖縄に配備される特殊潜航艇甲標的の輸送もおこなった[注釈 11]。 同任務中の8月7日[169]、長良は米潜水艦クローカーの雷撃で沈没した[170]。また8月22日には米潜水艦ボーフィンにより対馬丸が沈没した[157]。迅鯨型も、学童や教師の疎開に協力したという[167]

9月18日、迅鯨隊(迅鯨、第58号駆潜艇)と長鯨隊(長鯨、海威)は第四回沖縄方面輸送のため佐世保港を出港し那覇に向かった[171][172]9月19日午前9時15分[173][174]、アメリカ潜水艦(スキャバードフィッシュ)の雷撃により航行不能となる[17][175]。戦死者23名であった[176]。長鯨の護衛を切り上げてかけつけた海威に曳航され[177]、迅鯨は沖縄本島西の瀬底島まで曳航された[176]。途中、浮上潜水艦に対し8cm高角砲で応戦して撃退した[176]

十・十空襲で撃沈された迅鯨

日本海軍は大型艦による迅鯨曳航を検討していたが、その前にアメリカ軍の攻撃を受ける[176]。10月10日、迅鯨はアメリカ第38任務部隊による十・十空襲に遭遇して沈没した[178][179]。水深10メートル地点[14]のため上部構造物は水面上に出ており、数日間燃え続けたという[176]。この空襲では迅鯨とともに、海威[180]や敷設艇鷹島[181]なども撃沈された[182]

上陸した迅鯨の生存者は、病院船高砂丸などで沖縄から本土に帰投した[176][183]。迅鯨の船体は1952年(昭和27年)2月17日からサルベージ作業を開始、7月7日に浮揚[14]。9月1日に門司到着、その後北九州で解体された[14][184]。解体に先立ち、菊花御紋章は厚生省復員局に還納の上、靖国神社へ奉納された[14]

兵装の変遷

[編集]

航空機は1930年(昭和5年)度より一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい[注釈 2]。太平洋戦争中の練習艦時代には、水上偵察機関連の装備を全て撤去していたとされる[185]

8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換された。ただし。迅鯨乗組員は1944年(昭和19年)でも艦中央部両舷に8cm高角砲が装備されていたと回想し、実際に発射訓練をおこなったという[6]。大戦中の機銃増備は明らかでないが、艦橋前に25mm機銃連装1基、艦橋両舷に13mm連装機銃を装備した[185][186]。その他、同単装機銃10挺を増備していたとされる[187]。25mm単装機銃を装備していなかったという乗組員の証言もある[176]1944年(昭和19年)5月下旬には、呉海軍工廠で21号電探を前部マストのトップに装備した[151]。また新造潜水艦に爆雷攻撃を体験させるため、艦尾付近に訓練用の爆雷投下台を備えていた[6]。訓練用の九三式水中聴音機も装備している[6]

年表

[編集]
  • 1921年(大正10年)2月17日、命名[41]
  • 1922年(大正11年)2月16日 三菱長崎造船所にて起工[189]
  • 1923年(大正12年)5月4日 進水。
  • 1924年(大正13年)12月1日 水雷母艦から潜水母艦に艦種変更[16]。引き続き第1潜水戦隊所属。
  • 1925年(大正15年)12月1日 軽巡洋艦由良を第1潜水戦隊に編入、迅鯨と共に第1潜水戦隊所属[190]
  • 1926年(昭和2年)6月20日、由良は第1潜水戦隊からのぞかれ、第三戦隊に編入(阿武隈、鬼怒、由良)[191][192]
    • この後、第1潜水戦隊は迅鯨と潜水隊のみで編制される
  • 1933年(昭和8年)11月1日 軽巡洋艦由良を第2潜水戦隊に編入[192]、同潜水戦隊旗艦となる[193][194]
    • 11月15日 第二艦隊・第2潜水戦隊旗艦[194][注釈 12]
    • 昭和8年度、昭和9年度の第2潜水戦隊は、由良・迅鯨・3コ潜水隊で編制[196]
  • 1934年(昭和9年)1月24日 第2潜水戦隊旗艦を迅鯨から軽巡洋艦由良に変更[197]
    • 11月15日 予備艦となる。第2潜水戦隊は由良・長鯨・3コ潜水隊で再編[198]
    • この時期、迅鯨は復元性向上のための改装を受けたと推定される。
  • 1935年(昭和10年)11月15日 第一艦隊・第1潜水戦隊旗艦[199][注釈 13]
  • 1936年(昭和11年)12月1日 第二艦隊・第2潜水戦隊旗艦[201][注釈 14]
  • 1937年(昭和12年)12月1日[2] 第一艦隊・第1潜水戦隊旗艦[203][注釈 15]
  • 1938年(昭和13年)9月4日 第1潜水戦隊旗艦を伊号第7潜水艦に変更[62](9月8日より潜水母艦大鯨[64]
    • 9月15日 第5艦隊付属第2根拠地隊。
    • 12月15日 予備艦になる。
  • 1939年(昭和14年)6月1日 横須賀鎮守府籍へ転籍。
    • 11月15日 練習艦になる。
  • 1940年(昭和15年)11月15日 第4艦隊・第7潜水戦隊旗艦となる[205]
  • 1941年(昭和16年)12月8日 開戦時はクェゼリンで作戦支援。
    • 12月29日 座礁した呂60の乗員を救助。
  • 1942年(昭和17年)7月14日 第8艦隊第7潜水戦隊に編入。以降ラバウル方面へ進出。
  • 1943年(昭和18年)1月15日 呉鎮守府部隊に編入、海軍潜水学校練習艦となり訓練に従事[206]
    • 10月16日から19日 航行不能の間宮の救助作業に従事する。
    • 11月中旬 呉軍港から佐世保港まで、未完成艦伊吹を曳航する[207]
    • 12月1日 呉潜水戦隊に編入される。
  • 1944年(昭和19年)8月11日 呉港を出港し南西諸島方面の輸送作戦に従事
    • 9月19日 4回目の輸送作戦で佐世保から那覇へ向かう途中、潜水艦の雷撃を受け航行不能、沖縄本島へ曳航される。
    • 10月10日 沖縄本島西岸の瀬底島付近で敵機の攻撃を受け沈没(十・十空襲[34]
    • 11月10日 除籍。
  • 1952年(昭和27年)2月17日 浮揚作業開始。
    • 7月7日 浮揚。
    • 9月6日 北九州市戸畑港に回航され解体着手[14]

歴代艦長

[編集]

※『艦長たちの軍艦史』195-197頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長

[編集]
  1. 神代護次 大佐:1923年5月1日 - 1923年8月30日[208]

艦長

[編集]
  1. 神代護次 大佐:1923年8月30日[208] - 1924年12月1日
  2. 高崎親輝 大佐:1924年12月1日 - 1925年10月20日
  3. 瀧田吉郎 大佐:1925年10月20日 - 1926年11月1日
  4. 小森吉助 大佐:1926年11月1日 - 1927年11月15日
  5. 和波豊一 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
  6. 河村重幹 大佐:1928年12月10日 - 1929年10月3日[209]
  7. 出光万兵衛 大佐:1929年10月3日 - 1929年11月30日
  8. 寺本武治 大佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日
  9. 大崎義雄 大佐:1930年11月15日 - 1931年11月14日
  10. 小松輝久 大佐:1931年11月14日 - 1932年12月1日
  11. 鋤柄玉造 大佐:1932年12月1日 - 1933年10月20日
  12. 樋口修一郎 大佐:1933年10月20日 - 1934年10月9日[210]
  13. 加藤正 大佐:1934年10月9日 - 1934年10月22日
  14. 樋口修一郎 大佐:1934年10月22日 - 1935年11月15日
  15. 蓑輪中五 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  16. 岡敬純 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
  17. 古宇田武郎 大佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
  18. 山崎助一 大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
  19. 渡辺清七 大佐:1939年11月15日 - 1940年10月19日
  20. 佐藤四郎 大佐:1940年10月19日 - 1942年4月20日
  21. 大倉留三郎 大佐:1942年4月20日 -
  22. 佐藤敬三 大佐:1943年9月8日 -
  23. 大山豊次郎 大佐:1944年2月5日 -

参考文献

[編集]
  • 大西新蔵『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。 
    大西は第七潜水戦隊司令官として、1941年8月11日「迅鯨」に着任。その後、新編の第八艦隊参謀長へ転出。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 勝目純也『日本海軍潜水艦百物語 ホランド型から潜高小型まで水中兵器アンソロジー』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年12月。ISBN 978-4-7698-3097-9 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 
  • 五月会『波濤なみ流雲くもと青春と 第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集』朝雲新聞社、1980年4月。 
    • (543-556頁)松尾賢一郎「佐世保・北京・マーシャル」(昭和16年11月~昭和17年8月まで迅鯨主計長)
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行者『高松宮日記 第五巻 昭和十七年 十月~一月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403395-8 
  • 寺崎隆治ほか『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1 
    • (164-287頁)戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争/潜水母艦(六隻)
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年。 ISBN 4-584-17023-1
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記 日本空母物語』 第7巻、光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8 
  • 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』 第5巻、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 福井静夫 著「第三部 日本海軍の潜水母艦」、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本潜水艦物語』 第9巻、光人社、1994年12月。ISBN 4-7698-0657-4 
  • 福井静夫 著「第五章 特設水雷母艦、特設掃海母艦および特設潜水母艦」、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本特設艦船物語』 第11巻、光人社、2001年4月。ISBN 4-7698-0998-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 第17巻、朝雲新聞社、1968年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍戦備<2> ― 開戦以後 ―』 第88巻、朝雲新聞社、1975年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<1> ―開戦まで―』 第91巻、朝雲新聞社、1975年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 軽巡I 天龍型・球磨型・夕張・長良型』 第8巻、光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 小艦艇I 特務艦・潜水母艦 特設潜水母艦 駆潜艇・哨戒艇 掃海艇・輸送艦』 第13巻、光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6 
  • 宮崎三代治『あゝ我が紅顔未来の光 海軍大尉松田光夫の生涯』まつやま書房、1984年10月。 
  • 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史2 史料の精査と傍証の積み重ねで解き明かす定説の真偽と知られざる逸話の実相』 第51巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2005年8月。ISBN 4-05-604083-4 
    • 帝国海軍 真実の艦艇史2[第11章](177-185ページ)安達利英『潜水母艦「迅鯨・長鯨」戦時中の兵装変遷と作戦行動記録』
  • 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史3 「妙高」型、「初春」型の改装と最期艦載兵装の変遷』 第57巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2007年1月。ISBN 4-05-604599-2 
  • 歴史群像編集部編『睦月型駆逐艦 真実の艦艇史4 ― 謎多き艦隊型駆逐艦の実相』 第64巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2008年5月。ISBN 978-4-05-605091-2 
    • 帝国海軍艦艇 装備・兵装の解明 第4部(181-186ページ)安達利英『続・「迅鯨・長鯨」戦時兵装の変遷と行動』
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『造機部長会議1(1)』。Ref.C08050393300。 
    • 『造機部長会議1(2)』。Ref.C08050393400。 
    • 『大正12年 公文備考 巻21(防衛省防衛研究所)軍艦迅鯨製造一件』。Ref.C08050710000。 
    • 『大正12年 公文備考 変災災害付属 巻10(防衛省防衛研究所)軍艦(7)』。Ref.C08051009700。 
    • 『大正10年達完/2月』。Ref.C12070078300。 
    • 『大正10年達完/3月』。Ref.C12070078400。 
    • 『大正13年達完/12月』。Ref.C12070084200。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030018200。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030018300。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030022500。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030022600。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030022700。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030022800。 
    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年5月31日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030367300。 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年4月30日 呉鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030326500。 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年4月30日 呉鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030326600。 
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030368700。 
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(8)』。Ref.C08030368800。 
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。Ref.C08030368900。 
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(10)』。Ref.C08030369000。 
    • 『昭和18年9月1日~昭和18年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030328400。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年11月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030349200。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年11月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030349300。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年11月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030349400。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年11月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030349500。 
    • 『昭和18年11月1日~昭和18年11月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030349600。 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030329300。 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030329400。 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030329500。 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030329600。 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030329700。 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(6)』。Ref.C08030329800。 
    • 『昭和19年4月1日〜昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(7)』。Ref.C08030329900。 
    • 『昭和17年8月31日〜昭和18年3月31日 呉潜水戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030129700。 
    • 『昭和17年8月31日〜昭和18年3月31日 呉潜水戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030129800。 
    • 『昭和17年8月31日〜昭和18年3月31日 呉潜水戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030129900。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年4月30日 呉潜水戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030130200。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年4月30日 呉潜水戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030130300。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年4月30日 呉潜水戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030130400。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年4月30日 呉潜水戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030130500。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年4月30日 呉潜水戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030130600。 
    • 『昭和18年12月1日〜昭和20年4月30日 呉潜水戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030130700。 
    • 『昭和19年4月10日〜昭和20年5月10日 第4海上護衛隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030144100。 
    • 『昭和11年12月1日現在10版内令提要追録第1号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071968200。 
    • 『昭和19.9.1〜昭和19.11.30 太平洋戦争経過概要 その10/19年9月16日〜19年9月30日』。Ref.C16120645600。 
    • 『昭和19.9.1〜昭和19.11.30 太平洋戦争経過概要 その10/19年10月1日〜19年10月17日』。Ref.C16120646200。 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 計画では16ノットだが実際には18ノット近く出たとされる[3]
  2. ^ a b 航空機の搭載時期については『写真 日本の軍艦 第13巻』p95から「1930年より搭載」とした。『海軍艦艇史3』の巻末表によると「1928年より搭載」。
  3. ^ 三菱長崎造船所では1921年(大正10年)12月18日に加賀型戦艦2番艦「土佐」が進水し[39]、翌19日巡洋戦艦の「高雄」が起工した[40]
  4. ^ 迅鯨型2番艦「長鯨」も三菱長崎造船所で同年3月11日に起工したが、建造スケジュールを迅鯨と比較すると緩やかであった[11][45]
  5. ^ 第七潜水戦隊[73]:潜水母艦(迅鯨)、第26潜水隊(呂60、呂61、呂62)、第27潜水隊(呂65、呂66、呂67)、第33潜水隊(呂63、呂64、呂68)。
  6. ^ 横須賀海軍工廠で潜水母艦から空母へ改造中の大鯨(龍鳳)は、B-25の爆撃で損傷した[110]
  7. ^ 10月12日、米潜水艦セロの雷撃による。被雷した間宮には駆逐艦追風が付き添った[140]
  8. ^ 重巡洋艦伊吹は1943年(昭和18年)5月21日に進水したが[147]、その用途について研究がおこなわれていた[148]
  9. ^ 元は桃型駆逐艦の「」である[162]満州国に譲渡されて警備艦「海威」と改名されたが、1942年(昭和17年)6月24日に日本に貸与され[163]、船団護衛任務についていた[164]
  10. ^ 迅鯨第一回:8月11日、5隻(迅鯨、長鯨、海威、駆潜艇3隻)で佐世保発、12日から14日まで那覇滞在、16日夕から17日朝まで鹿児島滞在、同17日夕刻佐世保着[163]。第二回:8月22日~8月28日。第三回:9月6日~9月12日[2][165]
  11. ^ 内海西部から沖縄まで、甲標的が自力で移動することは無理だった[166]。迅鯨型は内海西部で甲標的2基を後部甲板に固定し[167]、外洋では搭乗員が乗った状態の甲標的2基を縦列曳航した[168]
  12. ^ 第1潜水戦隊旗艦は迅鯨から長鯨に変更される[195]
  13. ^ それまでの一潜戦旗艦だった多摩は、機関学校の練習艦になった[200]
  14. ^ それまでの二潜戦旗艦だった鬼怒は、第八戦隊に編入された[202]。第八戦隊旗艦は軽巡由良に指定された[201]
  15. ^ 第2潜水戦隊旗艦は軽巡五十鈴に変更された[204]

出典

[編集]
  1. ^ a b c #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 写真日本の軍艦13巻、112-113頁〔 潜水母艦(剣埼・大鯨・長鯨・迅鯨・駒橋・韓崎)行動年表 ◆迅鯨◆ 〕
  3. ^ 『海軍艦艇史 3』p270。
  4. ^ 『海軍艦艇史 3』の巻末表による。
  5. ^ a b 海軍生活放談 1979, p. 482.
  6. ^ a b c d e 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 178.
  7. ^ ポケット海軍年鑑(1935年)コマ46(原本74-75頁)
  8. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ64-66(原本88-92頁)〔 ◎艦艇類別等級 大正十五年十一月二十九日(内令二三八) 〕
  9. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ28(原本29頁)
  10. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ141(原本225頁)
  11. ^ a b c 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ141(原本225頁)
  12. ^ a b c 日本潜水艦物語、230-231頁「迅鯨型(迅鯨、長鯨)」
  13. ^ ポケット海軍年鑑(1937年)コマ44(原本70-72頁)
  14. ^ a b c d e f g h i 日本潜水艦物語234-235頁〔迅鯨型運用〕
  15. ^ 写真日本の軍艦13巻、114頁
  16. ^ a b c #達大正13年12月 p.1
  17. ^ a b c d e f 補助艦艇奮戦記、168頁「迅鯨(じんげい)」
  18. ^ a b 日本軍艦集2600年版コマ60(原本91頁)
  19. ^ a b c 日本潜水艦物語44-45頁
  20. ^ a b 日本潜水艦物語、48-51頁「潜水母艦と後方支援」
  21. ^ a b c d 写真日本の軍艦13巻、88-90頁「◇日本潜水母艦通史◇」
  22. ^ a b c d 日本潜水艦物語、219-221頁「わが潜水母艦の諸特長」
  23. ^ a b c d 写真日本の軍艦13巻、93-96頁「◇迅鯨、長鯨◇」
  24. ^ 補助艦艇奮戦記、169頁「大鯨(たいげい)」
  25. ^ 補助艦艇奮戦記、169頁「剣埼(つるぎざき)」
  26. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 80–82昭和十六年度艦隊編制(外戦部隊)(昭和一五.一一.一五付)
  27. ^ 日本潜水艦物語46-47頁〔太平洋戦争開戦時潜水戦隊一覧〕
  28. ^ 五月会 1980, p. 552.
  29. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 372–373第八艦隊の新編
  30. ^ a b c 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 177.
  31. ^ a b c 補助艦艇奮戦記、168-169頁「長鯨(ちょうげい)」
  32. ^ a b #S1801呉鎮日誌(1) p.5
  33. ^ #S19.09.16-09.30経過概要 p.9(1944.9.19)〔 迅鯨0915沖縄島北西80′附近(潜水艦)(魚雷)航行不能ch救援ニ赴ク 〕
  34. ^ a b 戦史叢書56 1972, pp. 14–15米機動部隊の沖繩来襲(十月十日)
  35. ^ #S1812呉潜水戦隊(6) pp.5-7〔 (ホ)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年10月)、#S19.10.01-10.17経過概要 p.13(1944.10.10)〔 沖縄島 宮古島 奄美大島}0640~1600艦上機連續来襲中四次ニ亘リ攻撃 〕
  36. ^ a b 潜水艦百物語 2018, pp. 377–378(93)潜水母艦
  37. ^ a b 日本潜水艦物語231-233頁〔迅鯨型特長〕
  38. ^ #造機部長会議1(2) pp.7-9〔 新造中止艦ヨリ利用シ得ベキモノ(大正一一.三.一九調) 〕
  39. ^ 海軍公報 第二千七百六十三號 大正10年12月19日 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C12070278200 〔 ○軍艦進水 長崎三菱造船所ニ於テ建造ノ軍艦土佐昨十八日午前十時三十分進水セリ 〕
  40. ^ 大正10年 公文備考 巻24 艦船1(防衛省防衛研究所)軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(2) 」 アジア歴史資料センター Ref.C08050173900 p.24〔 高雄十九日午前十時起工ヲ了セリ 十二月十九日三菱 〕
  41. ^ a b #達大正10年2月 p.11
  42. ^ a b #達大正10年3月 p.1
  43. ^ #艦船要目公表範囲(1936年12月1日) p.4〔 朝風|(艦性能略)|三菱長崎造船所|11-2-16|11-12-8|12-6-16|(武装略) 〕
  44. ^ #迅鯨製造 p.25、日本軍艦集2600年版 コマ31
  45. ^ #艦船要目公表範囲(1936年12月1日) p.1〔 長鯨|潜水母艦|(要目略)|三菱長崎造船所|大正11-3-11|大正13-3-24|大正13-8-2|(兵装略) 〕
  46. ^ 大正12年5月5日(土)海軍公報 第3166号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C12070287100 〔 ○軍艦進水 長崎三菱造船所ニ於テ建造ノ軍艦迅鯨本月四日午前十時進水セリ 〕
  47. ^ #艦船要目公表範囲(1936年12月1日) p.1
  48. ^ #迅鯨製造 p.44
  49. ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ39(原本38-39頁)〔 大正十二年 一〇、一(内令三四六)迅鯨(一潜水戰) 〕
  50. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 29–30末次司令官の意図
  51. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ39(原本38-39頁、大正12年12月1日・内令421号)
  52. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ60(原本81頁)
  53. ^ 日本潜水艦物語、43頁〔大正十五年度潜水戦隊〕
  54. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ40(原本40-41頁)「大正十四三年、一二、一(内令三一八)」
  55. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 30–31末次司令官の訓練
  56. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 35a-36その後の潜水艦用法の発展
  57. ^ 日本潜水艦物語、78-81頁「世界に冠たる海大潜」
  58. ^ 日本潜水艦物語、235-237頁「大鯨」
  59. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 35b-36.
  60. ^ 日本軍艦集2600年版コマ60(原本90頁)
  61. ^ 日本潜水艦物語247-249頁
  62. ^ a b 昭和13年9月5日(月)海軍公報(部内限)第3005号 p.18」 アジア歴史資料センター Ref.C12070375100 〔 ○旗艦變更 第一潜水戰隊司令官ハ九月四日旗艦ヲ迅鯨ヨリ伊號第七潜水艦ニ變更セリ 〕
  63. ^ 写真日本の軍艦13巻、112頁「潜水母艦(剣埼・大鯨・長鯨・迅鯨・駒橋・韓崎)行動年表 ◆大鯨◆」
  64. ^ a b 昭和13年9月10日(土)海軍公報(部内限)第3010号 p.47」 アジア歴史資料センター Ref.C12070375100 〔 ○旗艦復歸 第一潜水戰隊司令官ハ九月八日旗艦ヲ伊號第七潜水艦ヨリ大鯨ニ復歸セリ 〕
  65. ^ 日本潜水艦物語、249-250頁「新計画(昭和十七年立案のマル五計画)の潜水母艦」
  66. ^ 写真日本の軍艦13巻、122頁
  67. ^ 日本潜水艦物語、239-240頁
  68. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 379–380(94)特設潜水母艦
  69. ^ 日本特設艦船物語、101-103頁「特設潜水母艦」
  70. ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
  71. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 79a-80昭和十六年度の艦隊の改編
  72. ^ 戦史叢書91 1975, p. 512.
  73. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 79b-80.
  74. ^ 戦史叢書91 1975, p. 002a付表第二(「大本営海軍部・聯合艦隊〈1〉」)聯合艦隊編制推移表(昭和十四年十一月十五日~十六年十二月十日)
  75. ^ 戦史叢書38 1970, p. 99昭和十六年度第四艦隊行動一覧表
  76. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 297–298(60)L四型
  77. ^ 戦史叢書98 1979, p. 459a付録第一、潜水部隊編制及び仝改訂/昭和16年11月1日現在
  78. ^ a b #第4艦隊日誌(1) pp.3-5〔 四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一) 〕(昭和16年12月)
  79. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 137a-138開戦初期の作戦
  80. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 295–296潜水部隊の活躍
  81. ^ 海軍生活放談 1979, p. 473.
  82. ^ 海軍生活放談 1979, p. 477.
  83. ^ 海軍生活放談 1979, p. 479.
  84. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 105–107(19)ウェーク島作戦の悲劇
  85. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 197–198呂六十六潜と呂六十二潜の衝突
  86. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 137b-138, 469付録第二、日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/呂66
  87. ^ 潜水艦百物語 2018, p. 107.
  88. ^ 戦史叢書98 1979, p. 469b付録第二、日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/呂60
  89. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 137b-138.
  90. ^ 海軍生活放談 1979, p. 483二、呂六〇号の坐礁
  91. ^ 戦史叢書38 1970, p. 221「呂六十潜」坐礁
  92. ^ #第4艦隊日誌(1) pp.12-15〔 四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一) 〕(昭和17年1月)
  93. ^ 戦史叢書38 1970, p. 138ビスマルク諸島方面攻略作戦
  94. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 342–343機密南洋部隊命令作第七号別紙(抜粋)
  95. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 354–355攻略部隊およびその他の部隊の行動
  96. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 380–382南洋部隊の配備(7Ss旗艦に大鯨とあるが、迅鯨の誤記)
  97. ^ a b c #第4艦隊日誌(1) pp.22-24〔 (イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)〕(昭和17年2月)
  98. ^ 戦史叢書38 1970, p. 445南洋部隊主隊の行動
  99. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 446–449支援部隊の作戦
  100. ^ a b #第4艦隊日誌(1) pp.36-38〔 四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一) 〕(昭和17年3月)
  101. ^ 戦史叢書38 1970, p. 604a(4月2日横須賀帰投とする。)
  102. ^ a b #第4艦隊日誌(2) pp.3-5〔 四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一) 〕(昭和17年4月)
  103. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 139a-140四月上旬における戦時編制と各部隊の動静
  104. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 139b-140.
  105. ^ 戦史叢書98 1979, p. 459b編成改定/S17.4.10
  106. ^ 戦史叢書98 1979, p. 140第二段作戦における潜水艦作戦方針
  107. ^ 戦史叢書38 1970, p. 604b第二十一潜水隊のみ活躍
  108. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 545–5465S、5Sf等の南洋部隊への編入とドゥリットルの東京空襲
  109. ^ 海軍生活放談 1979, p. 489.
  110. ^ 歴群57、真実の艦艇史(3) 2007, pp. 62–65PART-7 ドーリットル空襲で被弾した「大鯨」
  111. ^ 海軍生活放談 1979, p. 491.
  112. ^ #第4艦隊日誌(2) pp.12-14〔 四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一) 〕(昭和17年5月)
  113. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 61a-62南洋部隊潜水部隊の作戦
  114. ^ 昭和17年6月5日(発令6月5日付)海軍辞令公報(部内限)第876号 p.46」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085700 
  115. ^ 『南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで』372ページ
  116. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』68-69ページ
  117. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』71-72ページ
  118. ^ #第4艦隊日誌(2) pp.27-29〔 四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一) 〕(昭和17年7月)
  119. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 179b-180潜水部隊の集中
  120. ^ #第8艦隊日誌(1) pp.29-31〔 四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動(八月分)其ノ一 〕(昭和17年8月)
  121. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 188a-189潜水部隊の概況(昭和17年9月)
  122. ^ a b 戦史叢書98 1979, pp. 179c-180.
  123. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 188b-189.
  124. ^ #第8艦隊日誌(2) pp.23-25〔 (ハ)任務編制配備(1)十月一日艦隊編制 〕(昭和17年10月)
  125. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 168–172聯合艦隊作戦命令
  126. ^ 戦史叢書83 1975, p. 233編制と作戦命令
  127. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 194–195十月六日における潜水部隊の概況
  128. ^ 戦史叢書83 1975, p. 502先遣部隊兵力部署(昭和17年11月中旬~12月下旬)
  129. ^ 戦史叢書98 1979, p. 460b編成改定/◎呉Ssの編入、転出/転出○ロ100→7Ss、イ36→15Sg(12.15)。
  130. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 362–365(88)小型
  131. ^ 高松宮日記5巻、315-316頁
  132. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 212a-213ガ島撤退作戦
  133. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 212b-213.
  134. ^ #S1712呉防戦(3) p.14
  135. ^ 戦史叢書98 1979, p. 460c〔 編成改定/S18.1.5○迅鯨(7Ss→呉鎮)。長鯨(呉鎮→7Ss) 〕と記載。
  136. ^ #第8艦隊日誌(4) p.16
  137. ^ 高松宮日記5巻、466頁
  138. ^ 戦史叢書98 1979, p. 256a呉潜戦、十一潜戦
  139. ^ 写真日本の軍艦13巻、46頁「『特務艦』行動年表 ◆間宮(給糧艦)◆」
  140. ^ a b 宮崎三代治 1984, p. 195.
  141. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 416a-4171米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援
  142. ^ #S1806呉防戦(8) p.1
  143. ^ #S1806呉防戦(7) p.46
  144. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 416b-417.
  145. ^ #S1811佐鎮日誌(3) pp.23-25
  146. ^ 日本空母物語、291-292頁「伊吹(1)改鈴谷型重巡として建造」
  147. ^ 戦史叢書88 1975, p. 32.
  148. ^ 戦史叢書88 1975, p. 24巡洋艦伊吹の改装
  149. ^ #S1811佐鎮日誌(5) pp.23-24
  150. ^ #S1809呉鎮日誌(3) pp.31-32、#S1806呉防戦(9) pp.11-13〔 (四)麾下艦船部隊行動 〕
  151. ^ a b 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 180.
  152. ^ #S1811佐鎮日誌(1) p.30
  153. ^ a b 戦史叢書98 1979, p. 256b.
  154. ^ 潜水艦百物語 2018, p. 368(90)譲渡潜水艦/呂号第五〇〇潜水艦(仮称さつき一号)
  155. ^ #S1812呉潜水戦隊(1) p.4
  156. ^ #S1812呉潜水戦隊(1) p.4、#S1812呉潜水戦隊(1) p.5
  157. ^ a b 日本軽巡戦史、563-565頁「鹿島の航空隊輸送」
  158. ^ #S1904呉鎮日誌(4) p.43
  159. ^ 戦史叢書17 1970, pp. 50a-51第二航空艦隊(南西諸島空)の進出輸送
  160. ^ 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 90a.
  161. ^ #S1812呉潜水戦隊(4) p.5
  162. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 294日本海軍駆逐艦艦名一覧/二等駆逐艦/樫(I)Kashi
  163. ^ a b c 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 182.
  164. ^ 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 52満州国海軍艦艇
  165. ^ #S1812呉潜水戦隊(4) pp.37-39〔 (ハ)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年8月)
  166. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 195–197(42)沖縄・甲標的の戦い
  167. ^ a b 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 181.
  168. ^ 歴群64、真実の艦艇史(4) 2008, p. 183.
  169. ^ 戦史叢書17 1970, pp. 50b-51.
  170. ^ 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, pp. 90b-91「長良」の最期
  171. ^ 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 183.
  172. ^ #S1812呉潜水戦隊(5) pp.8-10〔 (二)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年9月)
  173. ^ #S1812呉潜水戦隊(5)pp.22-23(迅鯨機密第一九一一二九番電)
  174. ^ #S1904呉鎮日誌(6) p.27
  175. ^ #S1904四海護(3) p.7
  176. ^ a b c d e f g 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 184.
  177. ^ #S1812呉潜水戦隊(5)pp.23-24(迅鯨機密第一九一七一八番電)
  178. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 607–611米機動部隊の沖繩強襲による被害
  179. ^ #S1812呉潜水戦隊(6) p.1
  180. ^ 福井静夫、日本駆逐艦物語 1993, pp. 77–78〈桃型〉
  181. ^ 補助艦艇奮戦記、203頁「鷹島(たかしま)」
  182. ^ #S1812呉潜水戦隊(6) p.13
  183. ^ 歴群64、真実の艦艇史(4) 2008, p. 184.
  184. ^ 写真日本の軍艦13巻、124頁
  185. ^ a b 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 179.
  186. ^ 歴群64、真実の艦艇史(4) 2008, p. 182.
  187. ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』p96による。
  188. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59(原本78頁)「大正十年三月三日(達三〇)」
  189. ^ 以下脚注なき限り、写真日本の軍艦13巻の112-113頁「潜水母艦(剣埼・大鯨・長鯨・迅鯨・駒橋・韓崎)行動年表 ◆迅鯨◆」を出典とする。
  190. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ41(原本42-43頁)「大正十五年、一二、一(内令二六四)」
  191. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ41-42(原本43-44頁)
  192. ^ a b 写真日本の軍艦8巻、234-235頁「軽巡洋艦『由良・鬼怒・阿武隈』行動年表 ◆由良◆」
  193. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ46(原本52-53頁)
  194. ^ a b 昭和8年11月6日(木)海軍公報 第2028号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070339200 
  195. ^ 昭和8年11月17日(金)海軍公報 第2029号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C12070339200 〔 ○旗艦變更 第二水雷戰隊司令官ハ神通ヨリ那珂ニ、第一潜水戰隊司令官ハ迅鯨ヨリ長鯨ニ一昨十五日旗艦ヲ孰モ變更セリ 〕
  196. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ46(原本53-54頁)「昭和八年一一、一五(内令三五一)」
  197. ^ 昭和9年2月21日(水)海軍公報 第2102号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C12070342400 〔 ○旗艦變更 第二潜水戰隊司令官ハ去月二十四日旗艦ヲ迅鯨ヨリ由良ニ變更セリ 〕
  198. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)コマ47-48(原本55-56頁)「昭和九年一一、一五(内令四七六)」
  199. ^ 昭和10年11月16日(土)海軍公報第2616号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070352600 、#海軍制度沿革(巻4、1939)コマ48-49(原本57-58頁)
  200. ^ 写真日本の軍艦8巻、59-60頁「軽巡洋艦『球磨・多摩・木曽』行動年表 ◆多摩◆」
  201. ^ a b 昭和11年12月11日(金)海軍公報(部内限)第2931号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C12070358800 
  202. ^ 写真日本の軍艦8巻、235-236頁「軽巡洋艦『由良・鬼怒・阿武隈』行動年表 ◆鬼怒◆」
  203. ^ 昭和12年12月14日(火)海軍公報(部内限)第2789号 p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C12070369100 
  204. ^ 昭和12年12月8日(水)海軍公報(部内限)第2784号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C12070369000 〔 ○旗艦變更 第二潜水戰隊司令官ハ十二月一日旗艦ヲ迅鯨ヨリ五十鈴ニ變更セリ|第五水雷戰隊司令官ハ十二月七日旗艦ヲ夕張ヨリ多摩ニ變更セリ 〕
  205. ^ 戦史叢書91 1975, p. 002b付表第二
  206. ^ #S1801呉鎮日誌(1) p.40
  207. ^ 戦史叢書88 1975, pp. 104–105巡洋艦伊吹の航空母艦への改造計画
  208. ^ a b 『官報』第3327号、大正12年9月1日。
  209. ^ 『官報』第831号、昭和4年10月5日。
  210. ^ 『官報』第2335号、昭和9年10月11日。

関連項目

[編集]