ウスティルーフ
ウスティルーフ Устилуг | |||
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位置 | |||
座標 : 北緯50度51分36秒 東経24度9分25秒 / 北緯50.86000度 東経24.15694度 | |||
歴史 | |||
市制施行 | 1940年 | ||
行政 | |||
国 | ウクライナ | ||
州 | ヴォルィーニ州 | ||
地区 | ヴォロディームィル地区 | ||
市 | ウスティルーフ | ||
地理 | |||
面積 | |||
市域 | 4.03 km2 | ||
標高 | 188 m | ||
人口 | |||
人口 | (2022年1月1日現在) | ||
市域 | 2060人 | ||
人口密度 | 511.2人/km2 | ||
その他 | |||
郵便番号 | 44731 | ||
市外局番 | +380-3342 | ||
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ウスティルーフ(ウクライナ語: Устилуг)はウクライナのヴォルィーニ州ヴォロディームィル地区にある都市。西ブーフ川、ルハ川の河岸に位置する。都市の高さは海抜188 mである。面積は4.03 km²。人口は2,060人 (2022年1月1日)[1]。
ウスティルーフは1150年に創建された。1653年に自治権を獲得した。1940年に市制施行された。
市内ではヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー駅がある。首都キエフまでの直線距離は453 km、鉄道で506 km、車道で506 kmとなっている。州庁所在地までの直線距離は84 km、鉄道で150 km、車道で90 kmとなっている。ウスティルーフの日は、7月12日となっている。
歴史
[編集]ウスティルーフはもとブク川の水運を主要な産業とするユダヤ人の村であり、19世紀なかばには人口の9割がユダヤ人だった[2]。第一次世界大戦後にはポーランド領ウシチウク(Uściług)となり、村から都市に昇格した。1939年のポーランド侵攻でウスティルーフはソ連に支配され、ナチス・ドイツのポーランド総督府と国境を接するようになった。ウスティルーフのユダヤ人の1⁄3はソ連政府によって別の町に移動させられた。1941年には爆撃によってウスティルーフの8割以上の家屋が破壊され、約500人が死亡した後、ドイツに征服された。ユダヤ人は強制収容所に入れられ、多くは殺害された[2]。
著名な人物
[編集]ウスティルーフはイーゴリ・ストラヴィンスキーが1914年まで夏の間を過ごしたことで知られる。ストラヴィンスキーの母の姉であるマリヤ・ノセンコ夫妻は1880年代はじめにウスティルーフに数千ヘクタールの土地を購入した[3]。ストラヴィンスキーは8歳のときに家族とともにはじめてウスティルーフを訪れ、いとこのエカテリーナ(後に妻となる)とはじめて会った[4]。大学を卒業した1905年にここでふたりは婚約を発表し、その後は第一次世界大戦の始まる1914年まで、夏の間をほとんど毎年この地で過ごした。ストラヴィンスキー本人の設計によって家が建てられ、1908年から住んだ[5]。『春の祭典』を含む多数の曲がここで書かれた。
2つの世界大戦で被害を受けたにもかかわらず、ストラヴィンスキーの家は現存するが、本来の設計からはかけ離れたものになってしまっている[5]。
脚注
[編集]- ^ “Чисельність наявного населення України на 1 січня 2022” [Number of Present Population of Ukraine, as of January 1, 2022] (uk,en). ウクライナ国家統計局. 2023年4月22日閲覧。
- ^ a b Pinkas Hakehillot Polin (1990). “Uscilug”. In Shmuel Spector. Encyclopedia of Jewish Communities in Poland. 5. Jerusalem: Yad Vashem. pp. 32-34
- ^ Walsh (1999) p.41
- ^ Walsh (1999) p.43
- ^ a b Walsh (1999) p.116
参考文献
[編集]- Історія міст і сіл Української РСР: Волинська область. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1970.
- Stephen Walsh (1999). Stravinsky: A Creative Spring: Russia and France 1882-1934. New York: Alfred A. Knopf. ISBN 0679414843