エクトル・ラウル・クーペル
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2018年のクーペル | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
エクトル・ラウル・クーペル Héctor Raul Cúper | |||||
ラテン文字 | Héctor Cúper | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1955年11月16日(68歳) | |||||
出身地 | チャバス | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1976-1977 | フェロカリル・オエステ | 5 | (0) | |||
1977-1978 | インデペンディエンテ・リバダビア | 6 | (2) | |||
1978-1988 | フェロカリル・オエステ | 424 | (24) | |||
1988-1992 | ウラカン | 132 | (8) | |||
通算 | 567 | (34) | ||||
代表歴 | ||||||
1984 | アルゼンチン | 3 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1993-1995 | ウラカン | |||||
1995-1997 | ラヌース | |||||
1997-1999 | マジョルカ | |||||
1999-2001 | バレンシア | |||||
2001-2003 | インテル・ミラノ | |||||
2004-2006 | マジョルカ | |||||
2007 | ベティス | |||||
2008 | パルマ | |||||
2008-2009 | グルジア代表 | |||||
2009-2011 | アリス | |||||
2011 | ラシン・サンタンデール | |||||
2011-2013 | オルドゥスポル | |||||
2013-2014 | アル・ワスル | |||||
2015-2018 | エジプト代表 | |||||
2018-2019 | ウズベキスタン代表 | |||||
2021-2022 | コンゴ民主共和国代表 | |||||
2023-2024 | シリア代表 | |||||
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エクトル・ラウル・クーペル(Héctor Raul Cúper、1955年11月16日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ州出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはDF(センターバック)。アルゼンチン代表であった。
経歴
[編集]選手時代
[編集]アルゼンチン・リーグのフェロカリル・オエステ、インデペンディエンテ・リバダビアそしてCAウラカンの3つのチームでプレーし、アルゼンチン代表としても5試合に出場した。
指導者時代
[編集]アルゼンチン時代
[編集]現役引退から1年半後、CAウラカンの監督に就任して指導者としての経歴をスタートさせ、CAウラカンを3年率いた。1995年にはCAラヌース監督に就任し、1996年にはコパCONMEBOL優勝を果たした。
スペインでの成功
[編集]1997年に海を渡り、スペイン・リーガ・エスパニョーラのRCDマヨルカ監督に就任した。就任初年度の1997-98シーズンにはプリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格したばかりのRCDマヨルカをリーグ5位に押し上げ、コパ・デル・レイでは決勝に導いた(FCバルセロナに敗れて準優勝に終わった)。1998年夏に行われたスーペルコパ・デ・エスパーニャではFCバルセロナに雪辱を遂げて優勝した。1998-99シーズンにはUEFAカップウィナーズカップに出場し、準決勝ではスコットランドのハート・オブ・ミドロシアンFCを破って決勝に進出したが、決勝でイタリアのSSラツィオに敗れた。同シーズンのリーグ戦ではリーグ最小失点の堅い守備の下、FCバルセロナとレアル・マドリードに次ぐクラブ史上最高の3位に躍進し、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
1999年夏にはバレンシアCF監督に就任し、堅守を基調としてサイドからのダイナミックなカウンターアタックを武器に、1999-2000シーズンと2000-01シーズンの2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグの決勝に進出した。しかし、初年度は同じスペインのレアル・マドリードに、2年目はドイツのバイエルン・ミュンヘンに敗れ、RCDマヨルカ時代から続く決勝の壁を跳ね返せなかった。
インテル
[編集]2001年には低迷していたイタリア・セリエAのインテル監督に就任し、2001-02シーズンのリーグ戦は3位、2002-03シーズンのリーグ戦は2位とまずまずの成績を残した。試合中にピッチ上でタバコを吸いながら指揮をしている。2002-03シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは準決勝に進出したが、ライバルのACミランにアウェーゴール差で敗れてベスト4に終わった。2003-04シーズンは6節終了時に8位と期待を裏切り、成績不振により解任された。
スペイン再挑戦
[編集]契約に関してインテルと揉め、解任から1年間はどのクラブも率いなかったが、2004-05シーズン途中に再びRCDマヨルカ監督に就任した。シーズン開幕から10試合を終え、RCDマヨルカは既に降格圏内に位置していたが、一時は残留を絶望視されていたチームを建て直し、終盤は大久保嘉人らの活躍で快進撃を続け、劇的な残留に成功した。2004-05シーズンはプリメーラ・ディビシオン残留を決め、2005年夏には多くの新加入選手を迎えたが、2005-06シーズンは再び残留争いに巻き込まれ、2006年2月に成績不振の責任を取ってRCDマヨルカ監督を辞任した。2007年夏にはレアル・ベティスの監督に就任したが、12月2日のアトレティコ・マドリード戦敗戦後に成績不振により解任された。
パルマFCとジョージア代表での迷走
[編集]2008年3月11日、 ドメニコ・ディ・カルロ監督の後任として残留を目指すセリエAのパルマFC監督に就任したが、2ヶ月間で10試合を戦って2勝しかできず、古巣インテルとの最終節を前にして解任された。結局、パルマFCはセリエB(2部)に降格した。2008年8月1日にはジョージア代表監督に就任したが、在任期間中に1勝も挙げることができず、2009年末の契約満了とともに退任した。
ギリシャでの復活
[編集]2009年11月3日、ギリシャ・スーパーリーグのアリス・テッサロニキと1年契約を結んだ。同年12月15日には契約を2011年6月まで延長した。リーグ戦では5位となり、欧州カップ戦出場権を懸けたプレーオフではオリンピアコスFCを上回る3位となって、クラブ史上初のUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。同シーズンのギリシャ・カップでは決勝に進出したが、パナシナイコスFCに敗れて準優勝に終わった。2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグ・グループリーグでは前年度覇者のアトレティコ・マドリードから2勝するなどし、6試合で勝ち点10を挙げて決勝トーナメントに進出した。しかし、同シーズンのリーグ戦では中位にとどまり、2011年1月に責任を取って辞任した[1]。
3度目のスペイン挑戦
[編集]2011年6月29日、マルセリーノ・ガルシア・トラル監督の後任としてラシン・サンタンデールと1年契約を結んだ[2]。しかし2011-12シーズンは開幕から13試合でわずか1勝しか挙げられずに最下位に低迷し、成績不振により11月29日に辞任した[3]。
トルコへ
[編集]2011年12月9日にトルコ1部のオルドゥスポル監督に就任。
エジプト代表
[編集]2015年3月2日、エジプト代表の監督に就任し[4]、ワールドカップへの本戦出場に貢献した。しかしグループリーグでの結果が目立たず、契約が更新されないままこの年で解任された[5]。
ウズベキスタン代表
[編集]2018年8月2日、ウズベキスタン代表の監督に就任した[6]。AFCアジアカップ2019ではベスト16進出に貢献することができた。しかし同年9月、2022 FIFAワールドカップ・アジア予選でパレスチナ代表との試合で2-0という敗戦のスタートを切ってしまい、23日に解任が発表された。
シリア代表
[編集]2023年2月、シリア代表の監督に就任した。就任後初の試合となった同年3月のタイ代表戦で勝利を収める。その後はベトナム代表とバーレーン代表に敗戦し2連敗。3試合勝利なしと苦しんだ。
2024年6月11日、 エディオンピースウイング広島で行われたFIFAワールドカップ26アジア2次予選兼AFCアジアカップサウジアラビア2027予選で日本代表と対戦した[7]。結果は5-0と惨敗[7]。第5節終了時点で3位の北朝鮮代表と1ポイント差で2位に付けていたシリアは、この後に行われる北朝鮮代表vsミャンマー代表で北朝鮮が敗れた場合、突破の可能性はあったものの北朝鮮代表が3-1で勝利したため、二次予選敗退が決定した[8]。それに伴い、シリア代表の監督退任を表明した[7]。
八百長問題
[編集]2012年1月20日、イタリア検察の取り調べに対し、アルゼンチンとスペインでの監督時に、それぞれ2試合ずつの八百長に関連し、20万ユーロの報酬を受けていたと認めていたことが、明らかになった。詳しい時期やクラブの名前は明らかになっていない[9]。
タイトル
[編集]指導者
[編集]- CAラヌース
- コパCONMEBOL : 1996
- RCDマヨルカ
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1998
- バレンシアCF
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1999
脚注
[編集]- ^ 不振のアリス、クーペル監督が辞任 UEFA.com、2011年1月18日
- ^ クーペル氏がラシンの監督に就任 UEFA.com、2011年6月29日
- ^ ラシンのクーペル監督が辞任 UEFA.com、2011年11月29日
- ^ エジプト代表、新監督はクーペルに決定 Qoly、2015年3月3日
- ^ エジプトサッカー連盟、エクトル・クーペル監督を解任へ sputniknews.com、2018年6月20日
- ^ ロシアW杯へ導いた元エジプト代表指揮官、ウズベキスタンの監督に就任決定 フットボールチャンネル、2018年8月3日
- ^ a b c “「全く日本には及ばなかった」、日本に完敗で敗退濃厚なクーペル監督が辞任表明…”. 超ワールドサッカー!. 2024年6月11日閲覧。
- ^ ゲキサカ編集部 (2024年6月11日). “北朝鮮が4大会ぶりアジア最終予選進出…森保Jに敗れたシリアは敗退”. ゲキサカ. 2024年6月11日閲覧。
- ^ クーペル監督がアルゼンチン、スペインでの八百長関与を認める SOCCER KING、2012年1月21日
外部リンク
[編集]- 人物紹介 ラシン・サンタンデール公式ウェブサイト
- BDFutboによるプロフィール
- Transfermarktによるプロフィール
- Worldfootballによるプロフィール
- RCDマヨルカでの出場記録
- 選手時代の出場記録 BDFA
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