コンテンツにスキップ

ノート:

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

国名ですが、古くから「」と呼ばれてきましたが、最近は「商」と呼ばれることが多くなってきていると思います。従って、「殷」から「商」へリダイレクトして方がいいと思います。秀の介 08:28 2003年9月15日 (UTC)

Googleで調べてみました。
「殷王朝」:6140件、「商王朝」:6840件
「殷の紂王」:867件、「商の紂王」:56件
「殷の時代」:1120件、「商の時代」:(ノイズ含み)245件
王朝名としては商がやや優勢ですが、時代名としては殷が圧倒的優勢ですね。どちらが良いか、にわかに断じがたいです。(まあ、今後の展望を考えれば「商」が良いのかも) ちなみに、私が2、3年前まで使っていた高校の教科書には「殷」と書かれていました。Ve 09:07 2003年9月15日 (UTC)
「商」が「正しい」のでしょうけれど、「日本で幅広い層に知られている」のは「殷」の方ではないでしょうか。
今は「殷」に記事を書いて、「」を「殷」へのリダイレクトとして確保し、将来「商」が普及したら「殷」の内容を「商」へ「このページを移動する」すれば良いと思います。
- Gombe 13:33 2003年9月15日 (UTC)

王の名前にリンクが貼られたようですが、他の王朝のように[[ほげ (殷)]]としませんか?に関しては、勝手に実行してしまいましたが。 秀の介 06:23 2003年11月3日 (UTC)

他の王朝のように[[○×△ (殷)]]とした方が、統一性はいいと思います。ただ、殷王朝の王名は、かなりユニークなものばかりで、他の単語と紛らわしくないのですから、(殷)をつけない方が、redirectとかの設定を考えれば、面倒くさくないと思います。(悪文すみませぬ)

中国王朝の天子の記事名をどうするか、今後少し考える必要もありますが。いま、中国帝王一覧のページでは、人によって、廟号が記事名になっていたり、本名が記事名になっていたりして統一性が見出しづらくなっています。あまり、殷のノートで論じるべきことではないですが。 Auf 07:13 2003年11月3日 (UTC)

王朝名をつけたくない、お気持ちはよくわかります(^^;。イギリスの君主の時にも問題になりました。

おっしゃるとおり、殷だけの問題ではないようなので、ノート:中国帝王一覧にも提案してみます。秀の介 07:17 2003年11月3日 (UTC)

尚書の都市名を殷としている記述ですが、山川出版社の「中国史1」の松丸先生の書かれている所によると、甲骨文に於いて殷と言う言葉が出てくるのは周になってから以降であり、もっぱら邑名として商が使われるとの事ですらりた 2005年11月21日 (月) 12:40 (UTC)[返信]

(以下はらりたさんの会話ページからコピーしました。下のClinamenさんの記述はこちらをうけています。--Kanbun 2006年4月5日 (水) 14:29 (UTC)[返信]

とすると、契が商に封じられたから商と呼んだとするのは俗説なんですかね?国全体を殷と呼んでいたかどうかについては文献をあたってみないとわかりませんが、首都あるいは首都のおかれた地域を指して国を指すということは中国史では珍しくないですから。殷を方伯の連合政体と見る考え方は古典的ですから、ただ『世本』に「武王克商後,商之子孫四散,以殷為氏」という記載があるようで、おそらく蔑称説はこれによるのでしょう。平勢についてはちょっと論文をあたってみることにします。殷のほうはClinamenさんを頼りに両論併記にあらためてみます。--Kanbun 2006年4月5日 (水) 13:52 (UTC)

文献だけによるのは危険ですが、『通志』では「殷氏,契姓,封於商,後世遷於毫。至周為周所滅,子孫以國名為氏」という記載であるようです。--Kanbun 2006年4月5日 (水) 13:54 (UTC)

(ここまで--Kanbun 2006年4月5日 (水) 14:29 (UTC)[返信]

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen2-kisicyosen.htm 契が商に封じられたというのは夏の実在性がよくわからないので伝説であるにしても、商族の故地が商ということのようで、その商族の都市国家だから殷墟は商邑と名づけられた。で、商族以外も含んだ連合国家をも商と呼んだか、殷と呼んだか、というあたりかと。商邑ゆえに王朝名が商という言い方をよそでしたのは間違いでした。自信ないので今度調べて見ます。--Clinamen 2006年4月5日 (水) 14:23 (UTC)[返信]

あー、というか現在の地名が商ってついているからといって当時そうだったかはよく分からないんですよね。定説ってあるんでしょうか。商族という言い方もかれらがみずから商と名乗っていたかよく分からないですし。やはり、甲骨文で、商は商邑を指す用法しか見つかっていない、というのはシンプルなファクトなわけで、史記などの文献はかなり後代のものなわけですし。調べてみますが、現状としてはらりたさんの編集で基本的には問題ないんじゃないでしょうか。それと、たまに、現在の殷墟を当時、殷とも呼んだみたいな説を見かけるんですが、これ本当なんでしょうか。--Clinamen 2006年4月5日 (水) 15:03 (UTC)[返信]

中文版に「到盘庚在位时,定都于殷(今河南安阳),并固定下来,从此商朝也称殷朝」とあります。詳しくはこちら参照で。これはおそらく『史記』の「封紂子武庚、祿父,以續殷祀,令修行盤庚之政。殷民大說。於是周武王為天子。其後世貶帝號,號為王。而封殷后為諸侯,屬周。」を受けているのでしょう。--Kanbun 2006年4月5日 (水) 19:46 (UTC)[返信]

『史記』に「太史公曰:余以頌次契之事,自成湯以來,采於書詩。契為子姓,其後分封,以國為姓,有殷氏、來氏、宋氏、空桐氏、稚氏、北殷氏、目夷氏。」とあります。この時代「國」とは「都市」あるいは転じて「領地」であったのはよく知られていることですよね。史記の記述を信ずるならば、殷というのは周代に封じられた「國」の名前に由来しますから、「商」より新しく、周代につけられた呼称ということになるでしょう。--Kanbun 2006年4月5日 (水) 19:52 (UTC)[返信]

「あー、というか現在の地名が商ってついているからといって当時そうだったかはよく分からないんですよね。」とありますが、商というのは夏によって契が封じられたとされる都市あるいは領土で、それが商丘に比定されているだけです。商という地域概念は当時しっかりありました。貝塚によれば、「商年を受くるか」という甲骨文が発見されており、当時殷墟を商と言っていたのは確かです。ややこしいですが、当時の殷の都は「大邑」あるいは「商」(後代の周側からの呼称が「商邑」)と呼ばれており、したがって国自体も商と呼ばれていた可能性があるということです。「殷」は周代に殷の人々が封じられた「國」であったようですが、したがって周以後「殷」国の地域自体も殷と呼ばれているようです。周の時代には殷は「殷」に住んでいる人々の国のことで、もとの「商」に住んでいた人々です(ややこしい)。整理しますと、
  • 甲骨文から明らかなことは都が「商」と呼ばれてたらしいこと。
  • 『史記』が言っているのは「國」から有殷氏と呼ばれたこと。この「國」が周によって封建された「國」なのか、殷人のもともとの「國」であるのかははっきりしない。
だと思われます。「商族という言い方もかれらがみずから商と名乗っていたかよく分からないですし。」とありますが、周は「周」に封じられたから、周族(?)とされているようですよ。殷の人も「商」に封じられたから、商族(?)とされていたとしても不思議でないでしょう(すくなくとも自分の都を「商」と言っていたらしいことは確かなようです)。--Kanbun 2006年4月5日 (水) 20:16 (UTC)[返信]
殷というのも「殷」に封じられたから殷なのですから、これを疑ったら呼称することは到底出来ないように思われます。--Kanbun 2006年4月5日 (水) 20:17 (UTC)[返信]

平勢については中公の『世界の歴史2 中華文明の誕生』を確認することができました。講談社の新版中国の歴史のほうを参照したかったのですが、あいにくと今日は参照できませんでした。この著作内では「古本『竹書紀年』によれば初代湯(唐・太乙)から九代太戊までは亳であり、十代仲丁が囂に遷都し、十二代河亶甲が相に遷都し、十五代帝開甲(沃甲)が庇に遷都し、十七代南庚が奄に遷都し、一九代盤庚が殷に遷都して三十代帝辛にいたる」としています。このころまではとくに殷を王朝全体の呼称として当時おこなわれたというような主張はしていないようですね。ほかにも平勢の著作を当たってみたのですが、参照できたのが春秋関係のものばかりで殷についての平勢の言及は上のものしか参照できませんでした。

「甲骨文で、商は商邑を指す用法しか見つかっていない、というのはシンプルなファクトなわけで、」これは誤りです。白川によれば商は大の意もあり、その例での使用例が確認されています。したがって周が後代に商邑といっていたというのは大邑の言い替えとも取れそうですが、殷の王族で子商という人物がいたことが確認されています。白川によれば殷の王子は子鄭など子のあとに地名と思しきものが付されており、おそらくそれが王子の領地であったろうとしています。甲骨文でも商邑ではなく商としてあらわされているのであり(したがって大邑の置き換えというのはあやしい)、白川に従うならば、おそらく商は地域名とみてよいと思われます。(白川とは白川静です。『甲骨文の世界 古代殷王朝の構造』を参照しました)--Kanbun 2006年4月6日 (木) 06:47 (UTC)[返信]
鶴間和幸は『四大文明』(NHK出版)のなかで、「殷王朝という言い方は盤庚以降遷都した殷という地名で王朝を総称したものであり、『史記』殷本紀にもとづく。中国では前期には殷はなかったのだからとして自称の商を使っている。」としています。鶴間の見方が私の理解に近いと思われます。--Kanbun 2006年4月6日 (木) 06:47 (UTC)[返信]
以上まだらりたさんやclinamenさんが想定しているような別説(殷が当時王朝名として使われていた?)については確認できていません。--Kanbun 2006年4月6日 (木) 06:47 (UTC)[返信]
あと手許の文献からは「大邑商」あるいは「天邑商」という甲骨文の用例がちょっと見つけられません。貝塚も「商」あるいは「大邑」としています。--Kanbun 2006年4月6日 (木) 07:16 (UTC)[返信]
平勢の説というのは誤りでした。私もその後調べて確認できなかったので記憶違いのようで、撤回します。失礼しました。大邑商などの名称は、山川世界歴史体系 中国史1 p131 「補説7 殷か商か」 です。そこでは、商は、殷後期の都とその地域の名であり、殷は殷代の甲骨には一切現れない。また西周の記述では王朝全体を指し、邑を指す例は無い。殷人は国や王朝全体を指す名は持っておらず、周人が与えた名である、としています。周代に封建された殷国のことは言及されていませんでしたが、これは甲骨と金文という同時代史料限定の議論だから出てこないのでしょう。契の説話についての言及はありませんでしたが、以上の諸説から考え、史記が漢代の資料であることから言うと、商に封じられた云々というのは疑わしいと思われます。夏が王朝であったというのも日本の学者は否定的なようですし。勿論、商が父祖の地であって、そこに末期になって再び遷都したという可能性はあるわけですが、かなり後代の記述であるし、同時代資料に積極的に支持する史料が無い、ということではないでしょうか。--Clinamen 2006年4月6日 (木) 08:33 (UTC)[返信]
ふむ。ただ都を商と呼んでいたことは確かなようですね。で、尚書ではそれを商邑と置き換えている。『史記』の時代には「殷虚」という記述もあります。史記で一時封建された殷国はその後滅ぼされて遺民は宋に封じられます。
「殷人は国や王朝全体を指す名は持っておらず、周人が与えた名である」というのはまったくそのとおりですが、「商が殷後期の都とその地域であり」という記述は適切であるとはいいがたいですね。都のことを一般に商と呼んでいるのか、殷墟を特定して商と言っているかは甲骨文からは判断できないと思われます。したがって文献の商に封じられたというのを見て、都のことを一般的に商といったのではないだろうかなどと考えたのではないでしょうかね。貝塚はそのような言及のしかたをしています。誤解してはいけないのは、殷墟を商と呼んでいたらしいから商王朝なのではなくて、『史記』に契が封じられたのが商であるとされるから商王朝なのであるという点です。で、考古学的にはその商が、二里頭であるとか商丘であるとかに「年代的に」比定されているだけです。ちょっと順序がすこしややこしいですね。
ともかく整理しますと、
  1. 「殷」という記述が支持されるのは、『史記』が殷本紀としており、現在の殷墟が「殷虚」として明確に言及されている。殷墟にあった王朝が史記に記述されたものに間違いない。また殷墟以前の王朝の歴史についてはまだ文献学的にも考古学的にも不十分であるため、殷墟を代表させて殷と呼ぶのがふさわしい。殷墟にあった王朝という意味で。
  2. 「商」という記述が支持されるのは、殷の地域に都を置いていたのが後期に過ぎないこと。『史記』でも契が封じられた場所は商であると言及しており、『史記』以前の文字資料もそれを裏付けてるのみならず、王朝名として殷ではなく商としている例も顕著なこと。よって殷墟以前も含めての王朝として捉えるならば商のほうがより適切であろう。商に封じられた王朝という意味で。
となると思われます。まあ「商」というのはおそらく「殷墟」に代表される「殷」の地域に王朝を限定したくない、というような意思表示だと思われますよ。ちょっと中国のナショナリズム的なところもあるのかと。「殷墟だけじゃないんだ、『商』は殷墟以前から存在しているんだ、古いんだ」みたいな。王朝としての実体を殷墟以前にすでに確認されるかどうかについてはおそらく別問題ですね。王朝という形式に固執するならば、日本的な発想では殷王朝とするのが適切ですが、社会としては連続性が確認できるわけですし、文明という観点からは商文明としてもよさそうでしょう。まあ中国側は商文明の王朝としてそのうち跡付けられると考えているようですが。--Kanbun 2006年4月6日 (木) 18:19 (UTC)[返信]
というのも、日本では大和朝廷とか近江朝廷とかいうときに「大和にあった朝廷」であり、「近江にあった朝廷」であるわけで、鎌倉時代とか江戸時代とかみんなそうなわけですが、中国では周も周に封じられた王朝、あるいは周を意識的な出身地域とする王朝、漢もそう、唐もそうなわけです。したがって「殷にあった王朝」とするよりは「商を意識的な出身地域とする王朝」とするほうが中国的ですし、周とか漢とかいうならば、当然殷よりは商のほうが望ましいというわけです。漢だって前漢は長安王朝、後漢は洛陽王朝になりますし、つまり中国では政権の位置で王朝の区分がしづらいから、出身地域で区分しているというべきでしょうか。これにしたがうならば、殷ではなくて商というのがある程度理解できると思われます。--Kanbun 2006年4月6日 (木) 18:42 (UTC)[返信]
「殷か商か」から幾つか引用します。
  • 甲骨文(殷後期の所産)には商は邑名として用いられているが殷はない。
  • 甲骨文中の商は邑名である。さまざまな修飾語を持つ名称があって、それらがどこを指すかについても、異説が多くて定まらない。私は……第一ー四期の商、中商、第五期の大邑商、天邑商は、ともに、安陽・朝歌、キ県一帯を含む半径二、三十キロほどの王都の範囲、第五期の商はおそらく今の商丘市を指すと考えている。
  • 商とは、武丁ー帝辛の在位期間(殷後期)に、その首邑の名として用いられた語である。
  • 周初にいたって、滅ぼした相手の支配の及んだ全域を指して言わなくてはならない場面が生じて、はじめて殷という呼称がでてきている。これは、前代を指して呼んだ、いわば国名であった。そして、これは他称である。
  • その後の文献では、商と殷とは、ある場合には区別して用いられているようだが、混乱している場合も多い。
  • さて、商は、甲骨文の時代、すなわち殷後期の首邑の名ではあったが、遡って中期・前期も同様であったかというと、はなはだ疑わしい。
根拠、詳細は直接あたってください。
ところで、殷という名はもともと周以来伝統的に殷王朝の名として使われており、それは殷という邑名に由来するものではなく、逆に、殷墟としての殷という名や周代の封建された国名としての殷のほうが、王朝名、前代の国名に由来するわけですから、殷墟以前からあるのだから商という論法は変です。これは中国の学者の論法を代弁されての議論なのかもしれませんが。また、殷が商とも伝統的に呼ばれてきたという事実について、史記の記述を重視する必要がどこにあるのかよく分かりません。殷が、商とも呼ばれてきたのは、別に史記の記述のせいではなく、単に、この二つの語が、周初に区別されていた区別が失われて、混用されてきたということでしょう。むしろ史記の記述は、その流れの中にあって、後代の都を父祖の地へと遡らせている可能性がある。少なくとも、甲骨文の時代ごろに商に遷都する以前に商という土地が、あるいはどこか同名の別の土地が、殷商部族・王朝にとって、特別な土地であったというような証拠はない。
殷の呼称は周が前代に与えた称号に由来。殷賑の意で美称。ただし衣=夷に音通で、殷賑の意義は後代の意味でもとは蔑称であるという説もある。そこから、殷末の首邑である商や、殷人を周代に封じた国もまた殷と呼ばれた。
商は、殷の最後の時期の首邑の名であり、王朝・支配領域ぜんたいの名ではない。ただし、周初以降になると、王朝名として殷を指す意味でも使われるようになった。

というのが私の理解です。殷の語義はちょっと個別のソースは覚えていないのでこれは必要であれば調べますが、流しておいてください。--Clinamen 2006年4月6日 (木) 20:12 (UTC)[返信]

えーと、たぶん食い違いがあると思うのですが、「殷という名はもともと周以来伝統的に殷王朝の名として使われており」というのはおそらく正しくないのではないでしょうか。殷という呼称より商のほうが先行していますし、周が「殷」と呼んでいるのは自身が殷の遺民を封建した「殷」のことではないでしょうか。さらに周でも殷の法律について言及した『尚書』の箇所は「商書」ですし、殷の時代の歌に言及した『詩』の箇所については「商頌」です。「殷墟以前からあるのだから商という論法は変です」とありますが、これは同じことが「殷」にも言えますよね?殷墟以前を捨象して殷という論法は変です。「商に遷都する以前に商という土地が、あるいはどこか同名の別の土地が、殷商部族・王朝にとって、特別な土地であったというような証拠はない」これも変です。殷の人々が自分たちの祖先が商に封じられたと考えていたことは文献からは推測できます。ちなみにこの部分の「殷商部族」を「周部族」におきかえるとわかると思いますが、まったく同じことが周についてもいえますよね?周は周で、殷は殷ということの根拠にはなりません。「殷の呼称は周が前代に与えた称号に由来。殷賑の意で美称」これも正確ではありません。そもそも殷の意味が確定的ではないことは承知されてるはずです。通説的な見方では蔑称であるとされていますし、殷が地域名でなかったというようなことも証明されていません。「むしろ史記の記述は、その流れの中にあって、後代の都を父祖の地へと遡らせている可能性がある」これは松丸の解釈でしょうか?中国の神話で商に封じられたのが契だけでないことは松丸は了解していると思われますが。またその際の商が殷墟のある安邑ではなくて、どうももっと北の黄河よりの南の地域らしいこと(現在の商丘市付近)も松丸は知っているはずです。松丸の言い分には確定的でないことがたくさんあります。いちいち指摘しましょう。

  • 「商とは、武丁ー帝辛の在位期間(殷後期)に、その首邑の名として用いられた語である」これは正しい。ただし、周代に殷の都を商邑(これは大邑の置き換えとは考えづらいとされていることは前述しました)と呼んでいることから、殷の一般的な都の呼称が「商」であるという主張がある。これはいまのところ学者がどう見るかという問題。
  • 「周初にいたって、滅ぼした相手の支配の及んだ全域を指して言わなくてはならない場面が生じて、はじめて殷という呼称がでてきている。これは、前代を指して呼んだ、いわば国名であった。そして、これは他称である」これは正しいとも正しくないともいえない。すくなくとも周初期は殷国は周の従属国として存続しており、地域名を取ってこれを呼称したとも考えられる。『史記』の有殷氏と名づけたという記事もこれを示唆しているともいえる。また殷の王朝を指して商という例があるので、他称としてどちらが正式ということはわかりません。これも学者によって見方は違うのではないでしょうか。
  • 「その後の文献では、商と殷とは、ある場合には区別して用いられているようだが、混乱している場合も多い」これは正しい。
  • 「さて、商は、甲骨文の時代、すなわち殷後期の首邑の名ではあったが、遡って中期・前期も同様であったかというと、はなはだ疑わしい」これも疑うことは可能という意味で正しい。

以上のことから松丸の説が確定的に殷を支持するものであるとは考えられません。私は殷でも商でもかまいませんが、もし松丸の以上の説から殷のほうがより正しいとするのは誤りです。中国の学者を肩を持つ気もさらさらありません。あと「史記の記述を重視する必要がどこにあるのかよく分かりません」とありますが、松丸説も史記の記述を重視しているのでは?史記以外の文献で商という記述がかなり一般的なのは私が各家の説によって言及したはずですが?むしろ史記はどちらかといえば一貫して殷です。ちなみに史記によれば殷の滅亡後、宋が封じられたのが古の商の地です。現在の商丘市ですね。--Kanbun 2006年4月6日 (木) 23:43 (UTC)[返信]

要約すれば、「殷の時代に殷の自称が存在したかどうか不明(おそらくない)。」「都は商と呼ばれていた」「地理的概念としての商はのちに宋が封じられているあたり(現在の商丘付近)」「殷も商もともに殷を指して呼んでいる例がある(当時何らかの区別があったかもしれないが不明)」であるときに、なぜ商より殷のほうが適切といいきれるのか謎です。商丘から遺跡が見つかったから商王朝としての存在が実証されたというのも私はにわかには信じがたいですが、殷をそれほど擁護する必要はないのでは?すくなくとも殷の方が適切であるという根拠はないように思われますが。中国史の用語法から言えば商の方が適切かもしれないという程度です。--Kanbun 2006年4月7日 (金) 00:22 (UTC)[返信]

Clinamenさんに補足させていただきますと、松丸氏は上に挙げたような理由から「商が自称で殷が他称であるから殷を商に置き換える」と言うことに対して異を唱えており、『史記』以来の長い伝統を持つ殷という呼称を使う方が良いと言っています。ですので「殷が正しくて商が間違い」と述べているわけではなく、「商が正しくて殷が間違い」と言う考えに対して反対しているということです。らりた 2006年4月7日 (金) 00:14 (UTC)[返信]

それは私も一緒です。というか商のほうが殷より適切であるというようなこと(その逆も)は歴史的事実から導き出せないということを言ったまでだったのですが、もしかして商のほうがよいと主張していると思われたのですかね?商の方をよいとする動機があるとすれば、中国史の用語法に照らせばという程度ですね。「殷にあった王朝」としての殷という呼称がよくないと言っているわけではありません。--Kanbun 2006年4月7日 (金) 00:22 (UTC)[返信]
いえそう言う訳ではなくて「松丸氏が『殷が正しい』と言っているわけではない」と言いたかっただけです。らりた 2006年4月7日 (金) 00:28 (UTC)[返信]
なるほどなるほど。とりあえず確かに商を持ち上げているように受け取られかねないと思い、ちょっと編集してみました。--Kanbun 2006年4月7日 (金) 00:38 (UTC)[返信]
ぶ。『中国の考古学』を読んでいたら、自分の勘違いを発見しました。殷墟は商より北です。(殷が南下したという思い込みがあったようです。まあ南下したのは違いないですが。)こちら参照----Kanbun 2006年4月7日 (金) 18:02 (UTC)[返信]

殷・商問題について言及した資料の追加です。

  • 最後に「商」と「殷」について説明しておこう。中国古代の書物は西周が滅ぼした王朝を、「商」とも「殷」とも呼んでいる。(『書経』は「商」、『史記』は「殷」)。商と殷がひとつの王朝の異名であることは疑いないが、なぜ2つの名前が伝えられたのか、説得力のある説明はいまだなされていない。(『中国の考古学』同成社)
  • 湯は謚であると言われる。契文では「唐」と書く。湯はその音によって当てた字であるが、湯字の音から言うと、或音は「殤」である。舜典釈文を始めとして他にも見える。この音は実は「商」なる国号と同音。しかし「殷」は商の転音であって、商丘は相土がはじめ商丘におって、「商」と言うに至ったと言われているが(左伝襄九年、士弱曰陶唐氏之火正閼伯、居商丘、相土因之)、実は商丘こそ商なる国号の由来する所で、「契」の始めから商丘におったと見るべきである。と言うのは、閼伯は実は燕伯で、それは殷伯と音の上から言えるのである。閼伯が陶唐氏の火正になったと言うは、「焉」字を「炎」と読んだからの附会で、これによって宋の分野説を説明したのではないかと思う。また実は相土は音から言って商社で、それは商丘であるからである。商の発祥地は鄭玄の言う如く太華山の陽の「商」ではない。(新釈漢文大系『書経』上、明治書院)
  • 契始封商、殷商之名、起于此矣。(水経、丹水注)
  • 商、宋也(『国語』注)
  • 昔盤庚所遷、改商曰殷。(水経、穀水注)

すくなくとも商は殷を指すとともに宋も指すため、後代混同を避ける意味で殷を用いている例もあります。その場合殷商などとしているようです(大漢和による)。ちなみに二番目のところで湯とあるのは殷初代、成湯のことです。--Kanbun 2006年4月8日 (土) 07:22 (UTC)[返信]

松丸の主張も確認してきました。「殷」「商」双方の主要な根拠にはこれで当たったと思われますが、今の記事内容で問題があるようでしたら、検討しつつ適宜補正を加えましょう。--Kanbun 2006年4月8日 (土) 07:43 (UTC)[返信]

Template:中国の歴史における議論について

[編集]

現在、Template‐ノート:中国の歴史において明を滅ぼした李自成が建国したとされるTemplate:中国の歴史に入れるか否か、また入れるとしたらどのように入れるかが議論されています。テンプレートに入れるべき王朝の範囲を決める重要な議論になるかと思いますので、の位置づけも含め、ご関心のある方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントとご教示をお願いします。--203.124.91.163 2008年10月19日 (日) 18:04 (UTC)[返信]