パウロ・セルジオ・シウヴェストレ・ド・ナシメント
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名前 | ||||||
本名 | パウロ・セルジオ・シウヴェストレ・ド・ナシメント | |||||
ラテン文字 | Paulo Sérgio Silvestre do Nascimento | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1969年6月2日(55歳) | |||||
出身地 | サンパウロ | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 79kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 両足 | |||||
代表歴 | ||||||
1991-1994 | ブラジル | 12 | (2) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
パウロ・セルジオ・シウヴェストレ・ド・ナシメント(Paulo Sérgio Silvestre do Nascimento、1969年6月2日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身の元同国代表サッカー選手。高い技術力と驚異的なまでのスピード、ゴールへの嗅覚を武器に、主に右サイドのウイングとして活躍した[1]。
経歴
[編集]子供の頃はパイロットになることが夢であった[1]。SCコリンチャンス・パウリスタのユースチームを経て、トップチームデビュー[1]。しかし、ネルシーニョ監督が率いていたGEノヴォリゾンチーノへレンタルに出された[1]。ネルシーニョがコリンチャンスの監督に就任すると、コリンチャンスへと複帰し、頭角を現した[1]。翌年には代表でプレー。コリンチャンスでは様々なポジションをこなし、1993年2月7日には、試合途中から急遽GKとしてプレーしたこともあった[1]。
代表には、1991年12月18日のチェコスロバキア戦でデビュー[1]。1994年のワールドカップアメリカ大会ではグループリーグの2試合、カメルーン戦とスウェーデン戦に途中出場したのみに終わるが[2]、優勝を果たした[3][1]。
1993年にバイエル・レヴァークーゼンへ移籍。移籍初年度からリーグ戦32試合で17ゴールを挙げ活躍した[1]。1994-95シーズンからは、名手ルディ・フェラーが加入してきたことで出場機会が減ったが、フェラーが引退すると再びレギュラーに戻り、33試合で17ゴールを挙げた[1]。レヴァークーゼンでは4シーズンプレーした。
1997年にカルロス・ビアンチの要望でASローマへ移籍[1]。フランチェスコ・トッティ、マルコ・デルヴェッキオと共に攻撃陣を形成。主に右WGでプレーし、2シーズンの間に57試合で22ゴールを挙げた[4]。
1999-00シーズンから、ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンへ移籍。在籍した3シーズンでリーグ優勝二連覇、UEFAチャンピオンズリーグ、インターコンチネンタルカップ優勝等、数々の優勝を経験[3]、通算125試合に出場34ゴールを挙げた[3]。 2002年に退団後はUAEで1年プレーし、ブラジルへ戻り引退した。
所属クラブ
[編集]- SCコリンチャンス・パウリスタ 1988-1993
- → GEノヴォリゾンチーノ1989-1990 (レンタル)
- バイエル・レヴァークーゼン 1993-1997
- ASローマ 1997-1999
- バイエルン・ミュンヘン 1999-2002
- アル・ワフダ・アブダビ 2002
- ECバイーア 2003
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k “Paulo Sergio, dai grandi successi con Brasile e Bayern a freccia della Roma di Zeman”. GOAL (2022年1月2日). 2023年9月2日閲覧。
- ^ “Paulo Sergio Nationalteam”. www.transfermarkt 2021年3月11日閲覧。
- ^ a b c “FC Bayern's Brazilians”. FC Bayern Munchen 2021年3月11日閲覧。
- ^ Roma, tattiche a confronto. Il 4-3-3 del primo Zeman contro l’ipotesi odierna