ラトナシリ
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ラトナシリ | |
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モンゴル帝国皇后・元朝皇后 | |
《元仁宗后像》 | |
在位 |
皇慶2年2月4日[1] - 延祐7年3月11日 (1313年3月1日 - 1320年4月19日) |
別称 |
漢字表記:阿納失失里 荘懿慈聖皇后 |
出生 |
不詳 |
死去 |
至治2年(1322年) |
配偶者 | アユルバルワダ(仁宗) |
子女 | シデバラ(英宗) |
氏族 | コンギラト部族 |
ラトナシリ(モンゴル語: Radnaširi/Раднашири)は、コンギラト部出身の女性で、モンゴル帝国第8代皇帝ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の妃の一人。『元史』などの漢文史料では阿納失失里(ānàshīshīlǐ)皇后、阿納失舎里(ānàshīshèlǐ)皇后と記される。
概要
[編集]『元史』ではコンギラト部出身であるとされるが、その家系や生年については一切記録がない。時期は不明であるが皇族のアユルバルワダに嫁ぎ、大徳7年(1302年)2月にシデバラを産んだ[2]。カイシャン、アユルバルワダの兄弟がカアンに即位するにあたってはコンギラト部出身の母親ダギが大きな役割を果たしていたが、兄カイシャンには非コンギラト出身の側室から産まれた子供しかおらず、ダギの孫世代でコンギラト部出身の女性を母に持つのはシデバラのみであった。そのため、ダギはカイシャンの子供を疎み、コンギラト出身の女性(ラトナシリ)から産まれたシデバラを厚遇することとなった。
アユルバルワダがブヤント・カアン(仁宗)として即位すると、皇慶2年(1313年)2月にラトナシリは皇后とされた[3]。延祐7年(1320年)正月にブヤント・カアンが崩御すると息子のシデバラがゲゲーン・カアン(英宗)として即位し、ラトナシリに皇太后の尊号を与えた。至治2年(1322年)、ラトナシリは亡くなり、荘懿慈聖皇后と諡された[4]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶二年二月]甲子、以皇后受冊寶、遣官祭告天地於南郊及太廟」
- ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「母荘懿慈聖皇后、弘吉剌氏、以大徳七年二月甲子生」
- ^ 『元史』巻106表1后妃表,「阿納失舎里皇后、弘吉烈氏。皇慶二年冊為皇后。延祐七年上尊諡曰荘懿慈聖皇后」
- ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝一,「仁宗荘懿慈聖皇后、名阿納失失里、弘吉剌氏、生英宗。皇慶二年三月、冊為皇后、上冊宝、遣官祭告天地於南郊及太廟。改典内院為中政院、秩正二品。英宗即位、上尊号皇太后、其冊文曰『坤承乾徳、所以著両儀之称、母統父尊、所以崇一体之号。故因親而立愛、宜考礼以正名。恭惟聖母、温慈惠和、淑哲端懿。上以奉宗祧之重、下以叙倫紀之常。恢王化於二南、嗣徽音於三母。輔佐先考、憂勤警戒之慮深。擁佑眇躬、撫育提攜之恩至。迨於今日、紹我丕基。規模一出於慈闈、付托益彰於祖訓。致天下之養以為楽、未足尽於孝心。極域中之大以為尊、庶可称其懿美。式遵貴貴之義、用罄親親之情。謹遣某官某奉冊、上尊号曰皇太后。伏惟周宗綿綿、長信穆穆、備《洛書》之錫福、粲坤極之儀天。啓佑後人、永錫胤祚』。明日、受百官朝賀於興聖宮。至治二年崩、上諡荘懿慈聖皇后、其冊文曰『致孝所以揚親、易名所以表行。矧為天下母而養弗逮、履天子位而報則豊。曷勝孺慕之心、必尽欽崇之礼。欽惟先皇太后、夙明壼則、克嗣徽音。輔佐先朝、有恭倹節用之実。誕育眇質、有劬勞顧復之恩。九族咸育於仁、四海仰遵其化。昊天不吊、景命靡融。愴聖善之長違、念風猷之未泯。是用揄揚於彤史、正宜敷繹於宝慈。爰據彜經、追厳徽号。謹遣攝太慰某官某奉玉冊玉宝、上尊号曰荘懿慈聖皇后。伏惟淑霊如在、合饗太宮。鑒格孔昭、膺茲巨典。陰相丕祚、億万斯年』。升祔仁宗廟」
参考文献
[編集]- 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、CRID 1050282677039186304、hdl:2433/73071、ISSN 0452-9774。