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三次郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三次郡(みよしぐん)は、広島県備後国)にあった

郡域

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1878年明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、三次市の一部(粟屋町・秋町を除く後山町、四拾貫町、南畑敷町、東酒屋町、青河町、下志和地町、三和町下板木、三和町有原、三和町羽出庭、三和町上板木以西)にあたる。

歴史

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郡名は江の川や馬洗川などの合流点という意味の「水寄し」(みよし)が転訛したという説や、「次」の字が付く3つの集落を総称して「三次」(みすき→みよし)となったなど諸説ある。

近世以降の沿革

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  • 明治初年時点では全域が安芸広島藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での町村は以下の通り。(1町50村)
三次町[1]、大力谷村、上板木村、羽出庭村、下板木村、福田村、上川立村、下川立村、上志和地村、下志和地村、青河村、西酒屋村、東酒屋村、原村[2]、南畠敷村[3]、畠敷村[4]、四拾貫村、後山村、穴笠村、東河内村、上里村、小文村、西河内村、藤兼村、東入君村、西入君村、泉吉田村、櫃田村、茂田村、石原村、上布野村、下布野村、戸河内村、山家村、三原村、日下村、大山村、香淀村、門田村、下作木村、大津村、伊賀和志村、森山西村、森山中村、森山東村、岡三淵村、横谷村、大畠村、光守村、西野村、上作木村
  • 明治4年7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により広島県の管轄となる。
  • 明治11年(1878年
    • 11月1日 - 郡区町村編制法の広島県での施行により、行政区画としての三次郡が発足。「三次恵蘇郡役所」が上里村三次町に設置され、恵蘇郡とともに管轄。
    • 三次町が分割し、一部(五日市町・内町)が上里村に、残部(十日市町)が原村に合併。(50村)
  • 明治19年(1886年) - 上里村が改称して三次町となる。(1町49村)
  • 明治22年(1889年4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。全域が現・三次市。(1町9村)
    • 板木村 ← 羽出庭村、大力谷村、上板木村、下板木村、福田村
    • 川地村 ← 上川立村、下川立村、上志和地村、下志和地村
    • 酒河村 ← 東酒屋村、西酒屋村、青河村
    • 原村(単独村制)
    • 八次村 ← 南畠敷村、畠敷村、四拾貫村、後山村
    • 三次町(単独町制)
    • 河内村 ← 日下村、三原村、山家村、小文村、西河内村、穴笠村、東河内村
    • 君田村 ← 櫃田村、茂田村、泉吉田村、西入君村、東入君村、藤兼村、石原村
    • 布野村 ← 上布野村、下布野村、戸河内村、横谷村
    • 作木村 ← 大畠村、光守村、岡三淵村、西野村、大津村、伊賀和志村、森山西村、森山中村、森山東村、香淀村、門田村、大山村、上作木村、下作木村
  • 明治31年(1898年10月1日 - 郡制の施行のため、三次郡・三谿郡の区域をもって双三郡が発足。同日三次郡廃止。

行政

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三次・恵蘇郡長
氏名 就任年月日 退任年月日 備考
1 明治11年(1878年11月1日
明治31年(1898年)9月30日 三谿郡との合併により三次郡廃止

脚注

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  1. ^ 無高のため記載なし。
  2. ^ 原町組・原地村に分かれて記載。
  3. ^ 記載は南畑敷村。
  4. ^ 畑敷村元組・畑敷村新組に分かれて記載。

参考文献

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  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 34 広島県、角川書店、1987年2月1日。ISBN 4040013409 
  • 旧高旧領取調帳データベース

関連項目

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先代
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行政区の変遷
- 1898年
次代
双三郡