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伊庭想太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊庭 想太郎
生誕 亥作
嘉永4年(1851年10月
日本の旗 日本江戸
死没 (1907-10-31) 1907年10月31日(56歳没)
日本の旗 日本東京府小菅監獄
別名 亥朔
職業 教育者剣術家
罪名 謀殺罪
刑罰 無期徒刑[1]、短刀没収、訴訟費用30圓徴収
子供 伊庭孝
伊庭秀業、マキ
有罪判決 明治34年(1901年9月11日
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伊庭 想太郎(いば そうたろう、1851年嘉永4年〉10月 - 1907年明治40年〉10月31日[2]は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての教育者(私塾文友館館長)、剣術家心形刀流剣術第10代)にして、政治家星亨を殺害した殺人犯である。幼名は、亥朔(いさく)。

生涯

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嘉永4年(1851年)、心形刀流第8代・伊庭秀業の四男として江戸に生まれる[3]。元唐津藩士。

兄・伊庭八郎戊辰戦争で戦死したのち、心形刀流9代目の義父・秀俊より10代目を受け継ぐ[3]明治維新後は、工部大学校入学の準備をしていたが入学はしていない[4]東京市四谷区仲町に私塾・文友館を開き、小笠原長行の息子小笠原長生(のち海軍中将)の家庭教師を務める。徳川育英会幹事、東京農学校校長、四谷区議、日本貯蓄銀行[5]頭取[6]、相談役などを歴任[7]

明治34年(1901年)6月21日、前逓信大臣で政治家の星亨を公衆の面前で暗殺した[8]。刺殺後、天下のためであると怒号を上げて、持参した斬奸状なる書状を読み上げたという[9]

無期徒刑となり[10][11]、明治35年(1902年)4月24日[12]小菅監獄に入獄し、明治40年(1907年)に胃ガンのため病死した[13]

東京都中野区沼袋貞源寺に、伊庭想太郎の墓がある[3]

養子に新劇俳優伊庭孝がいる。

主な門弟

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脚注

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  1. ^ 北海道の刑務所に流され、強制労働を課されることを意味する。
  2. ^ 「伊庭想太郎死す」『東京朝日新聞』明治40年11月3日、聞蔵IIビジュアル閲覧2013年10月9日
  3. ^ a b c 全国版幕末維新人物事典 2010, p. 339
  4. ^ 「星亨遭難詳報」明治34年6月22日 読売新聞『新聞集成明治編年史第十一巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 「日本貯蓄銀行」明治28年設立大正4年に解散(銀行図書館銀行変遷史データベース)協和銀行・りそな銀行の前身の銀行とは別の物
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治29年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「凶行者伊庭想太郎」時事新報 明治34年6月22日 『新聞集成明治編年史第十一巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 「前逓信大臣星亨凶刃に斃る」時事新報 明治34年6月22日『新聞集成明治編年史第十一巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 伊庭想太郎顔写真あり「星亨遭難詳報」明治34年6月22日 読売新聞『新聞集成明治編年史第十一巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 「伊庭想太郎に無期徒刑の判決」明治34年9月11日 時事新報『新聞集成明治編年史第十一巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 「伊庭想太郎の控訴審判決」明治35年4月20日 時事新報『新聞集成明治編年史第十一巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「明治35年重要日記」『新聞集成明治編年史第十二巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「伊庭想太郎獄死」東京朝日新聞 明治40年11月3日『新聞集成明治編年史第十三巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)

登場作品

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参考文献

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  • 歴史群像編集部 編『全国版幕末維新人物事典』学研パブリッシング、2010年。ISBN 9784054044630 

外部リンク

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