伴資健
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伴 資健(ばん すけゆき、1835年12月31日(天保6年11月12日[1])- 1913年(大正2年)1月28日[1])は、安芸国(現:広島県)出身の政治家。広島市長を3期務めた。幼名保之丞、のちに後十郎兵衛、資知と改名。
経歴
[編集]1835年(天保6年)広島藩士太田三郎右衛門敬信の次男として、広島中ノ町(現:広島市中区中町)に生まれる[2]。広島藩学問所(現:修道中学校・高等学校)に学ぶ[3][4]。1855年(安政2年)叔父伴勇次郎資道の養子となる。1862年(文久2年)御奥詰、1863年(文久3年)若殿付御奥小姓、1865年(慶応元年)御目付役を歴任。1866年藩命を受け山田十竹と共に藩学の洋学生50名を引率し江戸に遊学[5]。1868年(明治元年)御勘定奉行となる。その後、広島県第八大区長、広島県賀茂郡長を歴任し、1889年(明治22年)11月28日から1906年(明治39年)8月30日まで3期広島市長(官選)を務める。1902年(明治35年)フランス共和国よりシュウリユード・ローガン・ナショナル・ド・レジョンドノール勲章受章、1906年(明治39年)日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章。1913年(大正2年)1月28日逝去。79歳。従六位[6]。