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倍賞明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倍賞 明
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都
生年月日 (1944-05-11) 1944年5月11日
没年月日 (2019-01-22) 2019年1月22日(74歳没)
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 日産自動車(1975 - 1979)

倍賞 明(ばいしょう あきら、1944年5月11日 - 2019年1月22日)は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは一塁手。5人兄弟姉妹の長男で長姉は倍賞節子。女優の倍賞千恵子は姉、倍賞美津子は妹[1]。弟は倍賞鉄夫。

来歴・人物

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日本大学第三高等学校では1962年、井上治男(早大日本石油)、豊永邦男の両エースを擁し、春夏の甲子園に一塁手、三番打者として連続出場。春の選抜では準決勝に進み、中京商林俊彦の好投に苦しめられるが1-0で9回裏サヨナラ勝ち。決勝では作新学院との接戦になるが、八木沢荘六を打ち崩せず0-1で敗退、準優勝にとどまる[2]。同年夏の選手権は準々決勝に進むが、村上公康のいた西条高に敗れる[3]。同年の岡山国体にも出場するが、1回戦で久留米商伊藤久敏に完封負けを喫した。

1963年日本大学に進学。東都大学野球リーグでは1966年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で山下律夫有藤通世らのいた近大を降し優勝。大学同期に投手吉村典男、1年下に優勝時のエース森内一忠遊撃手石井久至外野手正垣泰祐がいた。

卒業後は社会人野球全鐘紡に進む。1968年産業対抗では決勝で日本通運を降し優勝するが、業績不振により野球部が解散。1969年日産自動車に移籍し中心打者として活躍。1973年都市対抗では、1回戦で松下電器山口高志から3点本塁打を放つ[4]。その後も藤田康夫長谷川勉らの好投もあって決勝に進出。しかし日本鋼管に投手陣が打ち崩され大敗、準優勝にとどまった[5]。他のチームメイトに捕手須藤和彦がいる。同大会の優秀選手賞を獲得。翌1974年都市対抗では、1回戦で新日鉄堺の山口高志(松下電器から補強)に完封負け、仇を取られた形になった[5]1975年には日産自動車監督となる。監督退任後は野球界を離れ飲食店チェーンなどを経営していた。

2019年1月22日、前立腺癌転移による多臓器不全により死去[1]

脚注

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  1. ^ a b “倍賞千恵子の弟・倍賞明氏が死去 元日産自動車硬式野球部監督”. サンケイスポーツ. (2019年1月26日). https://www.sanspo.com/article/20190126-O3ETQJBWIJIFLBQALVFOIWY75I/ 2020年5月19日閲覧。 
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、p.106
  5. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目

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