八島 (能)
八島 |
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作者(年代) |
世阿弥(室町時代) |
形式 |
複式夢幻能 |
能柄<上演時の分類> |
修羅能(二番目物) |
現行上演流派 |
観世、宝生、金春、金剛、喜多 |
異称 |
屋島(観世流) |
シテ<主人公> |
源義経 |
その他おもな登場人物 |
旅の僧(ワキ) |
季節 |
春 |
場所 |
讃岐国屋島 |
本説<典拠となる作品> |
『平家物語』 |
能 |
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『八島』(やしま)は、『平家物語』に取材した能の作品。観世流では『屋島』。成立は室町時代。作者は世阿弥。複式夢幻能、修羅能の名作といわれる。『平家物語』の巻11「弓流しの事」などから取材され、屋島の戦いにおける源義経主従の活躍と修羅道に落ちた武将の苦しみが描かれている。
概要
[編集]能のあらすじは次のとおりである。都から旅に出た僧(ワキ)が、讃岐国屋島(八島)の浦に着く。漁翁(前シテ)と漁夫(ツレ)が塩屋に帰ってきたことから、僧は、漁翁に一夜の宿を借りる。漁翁は、僧の求めに応じ、かつての屋島での源平合戦で、源氏方の三保谷四郎と平家方の悪七兵衛景清が一騎打ち(錏引き)をした様子などを物語る。漁翁は、義経の亡霊であることをほのめかして、姿を消す(中入り)。そこに塩屋の本当の主(アイ)が帰ってきて、僧に、屋島の戦いの様子を改めて説明する。僧が待ち受けていると、義経の亡霊(後シテ)が甲冑姿で現れる。義経は、屋島の戦いで波に流された弓を敵に取られまいと拾い上げた「弓流し」の逸話を語り、修羅道での絶え間ない戦いに苦しむ様子を再現するが、春の夜が明けると、戦いは遠くへ消え去り、浦風の音が聞こえるだけとなった(進行)。
『申楽談儀』に本曲への言及が見え、世阿弥の作品と考えられる(作者・沿革)。
修羅能(二番目物)の一つであり、『田村』、『箙』とともに勝修羅と呼ばれる。完成された複式夢幻能であり、『平家物語』巻11を典拠とする「錏引き」や「弓流し」の合戦話を配しながら、佳名(名誉)にこだわる義経の心情や、「生き死にの海山」で妄執に苦しむ義経を描いている(特色・評価)。
進行
[編集]作品は典型的な複式夢幻能の形式をとり、(1)旅の僧(ワキ)が漁翁(前シテ)に出会う
前場
[編集]僧の登場
[編集]都の僧(ワキ)が、従僧(ワキツレ)とともに登場し、旅の途中、讃岐国屋島(八島)の浦に着いたことを告げる。
ワキ「これは |
[僧]私は都から来た僧です。私はまだ四国を見たことがありませんので、この度思い立ち、西国への行脚を志したのです。 |
漁翁・漁夫の登場
[編集]漁翁(シテ)と供の漁夫(ツレ)が、漁を終えて屋島の浦に帰ってくる。シテの面は朝倉尉(または笑尉)、釣竿を肩に掛けた漁師の姿である[1]。
僧の宿の求め
[編集]漁翁・漁夫が塩屋に戻ってきたことから、僧は、一夜の宿を貸してほしいと、漁夫を通じて願い出る。漁翁は、余りに見苦しいのでと、いったんはその求めを断る。しかし、僧が、自分は都の者で、この浦を初めて訪れたが、日が暮れたので、なにとぞ一夜の宿を貸してほしいと重ねて頼むと、漁翁はこれを承諾した。
シテ「なに旅人は都の人と申すか |
[漁翁]なに、旅人は都の人だというのか。 |
漁翁による物語
[編集]僧は、この地は源平の合戦の地だと聞き及んでいると言って、その物語を聞かせてほしいと求める。漁翁は、お安いことだと言って、屋島の戦いの有り様を語って聞かせる。
シテ「いでその頃は元暦元年三 |
まず、このように義経の出立ちについて語られた後は、源氏方の三保谷四郎と、平家方の悪七兵衛景清とが一騎打ちし、景清が四郎の兜の
ツレ〽その時平家の方よりも、言葉戦ひこと終はり、 |
[漁夫]その時、平家方からも、言葉での言い合いが終わり、兵船が一艘漕ぎ寄せ、武者が波打際に降り立ち、陸方の敵を待ち構えていたところ、 |
漁翁の正体の暗示
[編集]僧は、漁師にしては余りに詳しいと不審に思い、漁翁の名を尋ねる。すると、漁翁は、直ちには名乗らないで、姿を消す(中入り)。その際、「よし常の憂き世の」という詞章から、正体が義経であることが暗示される。
シテ〽春の夜の |
[漁翁]春の夜の |
間狂言
[編集]塩屋の本当の主人(アイ)が帰ってくる。僧は、主人に、源平の合戦の様子について語ってほしいと所望する。主人は、僧らが無断で塩屋に入ったのではないかといぶかしみながらも、景清と三保谷四郎との「錏引き」の逸話などを、口語体で語る。僧が、主人が現れる前に起こった出来事を話すと、主人は、逗留を勧めて退場する[8]。
後場
[編集]僧の待謡
[編集]僧は、塩屋で一夜を明かし、漁翁が正体を現すのを待つ。
ワキ〽声も更け行く浦風の、声も更け行く浦風の、松が根枕そばだてて、思ひを延ぶる |
[僧](夢を覚まさずに待てという)老人の声が聞こえたが、浦風が吹いてきて、夜も更けてきた。松の根を枕とし、苔をむしろとして、改めて夢を待っているところだ。 |
義経の登場
[編集]義経の亡霊(後シテ)が登場する。面は
ワキ〽不思議やな、はや暁にもなるやらんと、思ふ寝覚の枕より、甲冑を帯し見えたまふは、もし判官にてましますか |
[僧]不思議なことだ。はや明け方にもなろうかと思う寝覚めの枕元から、甲冑を着けてお現れになったのは、もしや判官(義経)でいらっしゃいますか。 |
僧は、心の持ち方によって生死の海とも見え、真如の月とも見えるのだと諭すが、義経は、合戦の有様を忘れることができないと言う。
ワキ〽昔をいまに思ひ出づる |
[僧]昔を今思い出す |
義経による物語
[編集]義経の亡霊(後シテ)は、屋島の戦いの様子を回想し、物語る。義経が、波打際に馬を進めて戦ううちに弓を取り落としてしまい、弓が潮に流されたので、敵船近くまで馬で追いかけて弓を取り戻したという「弓流し」の場面である。義経は、危険を冒してまで弓を取りに行ったのは、弓を惜しんだのではなく、弓を敵に取られて名誉を失うのを恐れたからだと述べる。
シテ「その時 |
[義経]その時、どうしたことか、判官(義経)は弓を取り落とし、弓が波に揺られて流れていった。 |
終曲
[編集]義経の亡霊(後シテ)は、笛、小鼓、大鼓の囃子で、カケリを演ずる。
その後、舞いながら、修羅道での戦いの有様を再現する(キリ)。そこでは、生前に壇ノ浦の戦いで戦った相手である平教経と、再び戦うことを余儀なくされている。
シテ「今日の修羅の敵は |
[義経]今日の修羅道での敵は誰か。なに、能登守教経であるか。ああ生意気な、手並みのほどはよく知っている。思い出されるのは壇の浦の |
こうして舞い納めると、義経の亡霊は去り、終曲となる。
作者・沿革
[編集]『申楽談儀』に、「通盛・忠度・義経三番、修羅がかりにはよき能なり」とあり、この「義経」は本曲のことだと考えられている。また、同書では、「八島の能」について、「よし常の憂き世の」という表現が「規模」(眼目)だと評する記述がある。これらから、本曲が世阿弥の時代に成立していたことが確実であるが、構想・構成・引用典拠・詞章等の特徴から、世阿弥の作であると考えられている[12]。
『糺河原勧進猿楽記』に寛正5年(1464年)上演の記録があるなど、古くから頻繁に上演されてきた。
観世流では、観世元章の明和改正謡本で「八島」を「屋島」と改め、以後これを踏襲している[13]。
特色・評価
[編集]修羅能(二番目物)の一つである。戦勝した武将を主人公とすることから、『田村』、『箙』とともに勝修羅と呼ばれ、江戸時代は武士に好まれた[14]。ただし、そのような分類は、この曲の主題の理解に支障になっているとの指摘もある[13]。
完成された複式夢幻能の形式をとる。『平家物語』巻11を踏まえ、あるいは要約・脚色しながら、前場・後場それぞれに屋島の戦いの合戦話が配されている。前場では三保谷と景清の錏引きの剛勇譚、嗣信と菊王の最期を組み合わせて、源平武者を対比しながら、合戦の無常性を漂わせて後場につなげている。後場では弓流しの話を掛け合いで語り、佳名(名誉)にこだわる義経の心情を描いた後、「生き死にの海山」で妄執に苦しむ義経を描いている。これらが源氏と平家、海と陸、昔と今、閻浮(現世)と修羅といった対置構造の中で語られ、スケールの大きい作品となっている[15]。特に、義経が修羅道の苦患を現し、最高潮に達すると春の夜が明けて夢が覚めるキリの部分は、謡曲文中屈指の名文とされており、それに合わせた息もつかせない型は、能の見どころとなっている[14]。
義経が成仏できずに現世にさまよっている執心の本質は、「佳名はいまだ半ばならず」という後場の詞章に表現されていると指摘されている[13]。梅原猛は、義経にとっての最大の武勲である一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いよりも、屋島の戦いで弱い弓を拾うために危険を冒した義経を高く評価している点、末尾で、平家を滅ぼした壇ノ浦の戦いも夢のまた夢であったと描いている点に、戦争を厭う世阿弥の価値観が表れているとする[16]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 金春流・金剛流・喜多流では「面白さよ」。梅原・観世監修 (2013: 419)。
- ^ 典拠は「漁翁夜傍西巌宿、暁汲清湘燃楚竹」(柳子厚)。謡曲集 (1988: 330)。
- ^ 『平家物語』では、屋島の合戦は元暦2年2月19日としている。梅原・観世監修 (2013: 418)。梅原猛は、柳田国男が、旧暦3月18日は祀り手のいない怨霊が帰ってくる日であり、柿本人麻呂、小野小町、和泉式部の命日とされていると指摘していることを踏まえ、「八島」の作者は、あえてこの日を選ぶことで、怨霊として鎮魂されるべき人間として義経を描いているとする。梅原猛「世阿弥の能I――脇能と修羅能」(梅原・観世監修 (2013: 488))。
- ^ 義経の装束や、名乗りは、『平家物語』巻11(大坂越の事)に同様の記述がある。平家物語・角川文庫版 (179)。
- ^ 宝生流・金春流・喜多流では「どうど落つれば」。梅原・観世監修 (2013: 419)。
- ^ 『平家物語』巻11(弓流しの事)によれば、武蔵国の住人
美尾屋 十郎が馬を射られ、太刀を抜いたところに、長刀を持った平家方の武者が打ち掛かり、逃げようとした十郎の錏を3度つかみそこね、4度目につかんだ。すると錏が引き切れ、十郎は逃げおおせた。武者は上総悪七兵衛景清と名乗った。平家物語・角川文庫版 (187)。 - ^ 『平家物語』巻11(嗣信最期の事)によれば、能登守教経が義経を射落とそうと狙ったのに対し、継信(嗣信)が義経の矢面に立ち、身代わりとなって射抜かれ、馬から落ちた。能登殿の童・菊王丸がその首を取ろうと飛びかかったところ、継信の弟佐藤忠信が弓でこれを射抜いた。教経は右手で菊王丸をつかんで船に投げ入れたが、菊王丸は深手で死んだという。平家物語・角川文庫版 (182)。
- ^ 『平家物語』巻11(逆櫓の事)に、義経が都を立って屋島に向かうため摂津国渡辺に逗留した際、梶原景時が,退却時のために船に逆櫓を付けたいと進言したのに対し、義経が、退却のための逆櫓を付けることに反対し、景時が義経を「猪武者」と罵った話がある。梅原・観世監修 (2013: 418)、平家物語・角川文庫版 (173)。
- ^ 『平家物語』巻11(弓流しの事)によれば、義経が弓を取り落とし、味方が「ただ捨てさせたまえ」と言うのを聞かずに取り戻した。側近が、命には代えられないと諌めたのに対し、義経は、「叔父源為朝が使っていたような強い弓であったら、わざとでも落としただろうが、自分の張りの弱い弓を敵が取り上げ、源氏の大将軍の弓にしては弱い弓だと嘲弄されるのが悔しさに、命に代えて取ったのだ」と述べた。平家物語・角川文庫版 (188)。
- ^ 「水や空空や水とも見えわかず通ひて澄める秋の夜の月」(『新後拾遺和歌集』詠み人知らず)を引いている。梅原・観世監修 (2013: 419)。
- ^ 地名の高松を掛けている。梅原・観世監修 (2013: 419)。
出典
[編集]- ^ a b 梅原・観世監修 (2013: 406)。
- ^ a b 三浦 (2004: 52-53)。
- ^ 梅原・観世監修 (2013: 406-07)。
- ^ 梅原・観世監修 (2013: 409)。
- ^ 梅原・観世監修 (2013: 410)。
- ^ 梅原・観世監修 (2013: 410-11)。
- ^ 梅原・観世監修 (2013: 410-12)。
- ^ 謡曲集 (1988: 335-37)、梅原・観世監修 (2013: 412-13)。
- ^ 梅原・観世監修 (2013: 413)。
- ^ a b 梅原・観世監修 (2013: 414)。
- ^ 梅原・観世監修 (2013: 415-16)。
- ^ 謡曲集 (1988: 335, 496)、梅原・観世監修 (2013: 405)。
- ^ a b c 梅原・観世監修 (2013: 405)。
- ^ a b 権藤 (1979: 247)。
- ^ 謡曲集 (1988: 496-97)。
- ^ 梅原猛「世阿弥の能I――脇能と修羅能」(梅原・観世監修 (2013: 488))。
参考文献
[編集]- 伊藤正義校注『謡曲集 下』新潮社〈新潮日本古典集成〉、1988年。ISBN 4-10-620379-0。
- 梅原猛、観世清和 監修 著、天野文雄・土屋恵一郎・中沢新一・松岡心平編集委員 編『能を読む② 世阿弥――神と修羅と恋』角川学芸出版、2013年。ISBN 978-4-04-653872-7。
- 権藤芳一『能楽手帖』駸々堂、1979年。ISBN 4-397-50117-3。
- 佐藤謙三校註『平家物語 下巻』角川文庫〈角川文庫〉、1959年。ISBN 4-04-400702-0。
- 三浦裕子『面からたどる能楽百一番』神田佳明写真、淡交社、2012年。ISBN 978-4-473-03197-6。