内藤正朝
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天文10年3月19日(1541年4月15日) |
別名 | 通称:彦次郎(彦二郎) |
主君 | 大内義隆 |
氏族 | 藤原北家秀郷流内藤氏 |
父母 | 父:内藤興盛、母:内藤弘矩の娘 |
兄弟 | 隆時、正朝、隆貞、問田殿(大内義隆側室)、女(宍戸元秀室)、弥二郎、尾崎局(毛利隆元正室)、隆春、女(和智元郷室)、女(出羽元祐室)、山内元興、元種 |
内藤 正朝(ないとう ただとも[注釈 1][1])は、戦国時代の武将。大内氏家臣。通称は彦次郎。内藤興盛の次男。兄に隆時、弟に隆春などがいる。
生涯
[編集]桜尾城の戦い
[編集]天文10年(1541年)1月12日、厳島神主家の友田興藤が大内氏に叛旗を翻し、厳島を占拠した[3]。これに対し大内氏は、1月15日に厳島を奪回し[4]、3月18日には大内義隆が周防国玖珂郡岩国[注釈 2]から安芸国佐西郡門山[注釈 3]に進んで、興藤の籠城する廿日市の桜尾城に迫った[5]。
3月19日、正朝の兄・内藤隆時指揮下の部隊[注釈 4][6] が藤懸尾[注釈 5]に登り、桜尾城の様子をうかがった[5]が、この部隊に正朝も加わっていた。大内軍は以前にも藤懸尾に陣を構えていたが、3月9日に友田軍によって切り崩されていた[7]。大内軍の動きに対し、桜尾城側からは桑原与四郎らが出撃して合戦となった[8]。大内軍部隊は打ち破られ、正朝をはじめとして熊野藤右衛門尉や宮川大蔵太輔、そのほか主だった者10人余りが討ち死にした[5][9]。
その後、3月23日に大内義隆は七尾[注釈 6]に陣を進めて桜尾城への攻撃を開始し、4月5日に友田興藤が切腹して桜尾城は開城した[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 藤井崇 2019, p. 32.
- ^ 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.53
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.54
- ^ a b c 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.57
- ^ 『萩藩閥閲録』巻93「佐々木彌右衛門」(山口県文書館 編 『萩藩閥閲録 第三巻』1970年 p.45)
- ^ 「友田広就感状写」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.124)
- ^ 「友田興藤感状写」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.125)
- ^ 「内藤家系譜(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.694)
- ^ 廿日市市立七尾中学校 学校の概要 http://www.hatsukaichi-edu.jp/nanao-j/nanaojhs_gaiyou.html
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.58
参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年
- 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年
- 藤井崇『大内義隆 類葉武徳の家を称し、大名の器に載る』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年10月。