多羅尾光俊
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永正11年(1514年)[1] |
死没 | 慶長14年2月4日(1609年3月9日)[1] |
別名 | 光綱(諱)[2]、四郎兵衛、四郎右衛門[3] |
戒名 | 道賀、道可[1][4] |
墓所 | 大光寺(滋賀県甲賀市)[1] |
官位 | 左京進[要出典] |
氏族 | 多羅尾氏[3] |
父母 | 父:多羅尾光吉、母:池田教正の娘?[3] |
妻 | 伊勢貞孝の養女[1] |
子 | 神山佐渡の妻、光当、光太、光雅、伊兵衛、山口光広、光時[1] |
多羅尾 光俊(たらお みつとし)は、戦国時代から安土桃山時代の近江国の武将。
生涯
[編集]近江国甲賀郡信楽荘小川の国人・多羅尾光吉の子[3]。母親は若江三人衆の1人である池田教正の娘であるとされるが、教正の活動が初めて確認できるのは光俊が生まれた永正11年(1514年)から約50年下った永禄年間(1560年)前後であり、時代が矛盾している。なお、教正の娘の1人は若江三人衆の1人である多羅尾綱知の子・光信に嫁いでいる[5][6][7]。文正元年(1466年)8月に信楽荘から上洛した多羅尾四郎兵衛嗣光と同じ「四郎兵衛」を名乗っていることから、その末裔であると考えられる[8]。
当初は織田信長に属していたが、[3]。天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、堺にいた徳川家康が帰国を試みた際、五男・山口光広が家康と同行していた長谷川秀一と誼があったため、光広の連絡を受けてこれを援護することを決め、嫡男・光太とともに信楽領へと一行を招き入れた。家康の伊賀越えには子の光雅や光広らに甲賀衆を付け、伊勢白子まで道中警固させた。天正12年(1584年)、この伊賀越えの際の功労から山城・近江国内に所領を与えられた[3]。この伊賀越えは、河内・山城を経由していることから、多羅尾綱知・光信親子の後援があった可能性が指摘されている[7]。
その後は豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次に於萬の前を側室として送り込むなどして信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和に計8万石の所領を有したが[要出典]、秀次の失脚に連座して改易となり、信楽に蟄居した。慶長14年(1609年)、死去[3]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』, p. 112.
- ^ 東京大学史料編纂所データーベース「大日本史料総合データーベース[1]」
- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』, p. 111.
- ^ 柴田 1991, § 里村.
- ^ 松田毅一『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』(風間書房、1967年)
- ^ 村上直次郎訳註『耶蘇会の日本年報 第1輯』(拓文堂、1943年)
- ^ a b 天野忠幸『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(戎光祥出版、2023年)
- ^ 平山敏次郞「<研究>多羅尾氏に就いて」『史林』第24巻第4号、史學研究會(京都帝國大學文學部内)、1939年10月、822-834頁、CRID 1390290699825060352、doi:10.14989/shirin_24_822、hdl:2433/248432、ISSN 0386-9369。
参考文献
[編集]- 柴田實 編『滋賀県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1991年。ISBN 978-4-582-91011-7。
- 『寛政重修諸家譜』 15巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0219-2。