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大島義陳

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大島 義陳(おおしま よしつら、1721年享保6年) - 1788年12月6日天明8年11月9日))は、加治田大島氏三代目当主。幕府旗本寄合席[1]

大島義敬の次男。母は戸田氏賢の娘。養父は大島義浮。前妻は河野通喬の娘、後妻は柴田康闊の娘。子に大島義充。通称は幸之助、伊織、織部、左兵衛。法名は義道。

1734年(享保19年)12月11日、徳川吉宗に拝謁する。1746年(延享3年)11月3日、養父・義浮の死により家督を継承する。

1749年(寛延2年)3月22日、書院番となる(1751年(宝暦元年)12月28日辞職)。1755年(宝暦5年)5月11日、西城の御小姓組となり、1761年(宝暦11年)8月3日より本城に勤仕。

1762年(宝暦12年)12月15日西城に復し、1779年(安永8年)4月16日には本城の務となり、1781年(天明元年)5月26日に再び西城の勤めに戻る。

1783年(天明3年)7月26日に致仕。1788年(天明8年)11月9日に68歳で没。

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜巻第七十四 義陳の項より

参考文献

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関連項目

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