大庭二郎
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大庭 二郎 | |
---|---|
生誕 |
1864年7月26日 長門国、長州藩 |
死没 | 1935年2月11日(70歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1886 - 1926 |
最終階級 | 陸軍大将 |
大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日(元治元年6月23日[1][2])- 1935年(昭和10年)2月11日[1][2][3])は、明治から大正期の陸軍軍人。陸士旧8期、陸大8期(優等)[3]。栄典は従二位勲一等功二級。最終階級は陸軍大将。
経歴
[編集]長州藩士(現在の山口県青海島)、大庭此面の長男として生れる[1]。陸軍幼年学校を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官[1][3]。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した[1]。以後、参謀本部出仕、兵站総監部副官、参謀本部第1局員を経て、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)までドイツに留学し、その後、陸大教官、参謀本部員兼山縣有朋元帥副官、大本営参謀などを歴任した[1]。
日露戦争では、第3軍参謀副長として出征し[1]、旅順攻囲戦に参戦した[2]。1905年(明治38年)1月、後備第2師団参謀長[1][3](朝鮮駐剳軍)となり、朝鮮北部の作戦に従事した[2]。その後、近衛歩兵第2連隊長、陸軍戸山学校長などを経て、1910年(明治43年)11月、陸軍少将に進級し、陸軍歩兵学校長、歩兵第11旅団長を歴任[1][2][3]。第一次世界大戦では観戦武官としてロシア軍に従軍した[2]。1915年(大正4年)2月、陸軍中将となり、第3師団長を拝命しシベリア出兵に従事[1][3]。さらに、軍事参議官、朝鮮軍司令官を歴任[1][3]。1920年(大正9年)12月28日、陸軍大将[2][3][4]となり、軍事参議官、教育総監を勤め、1926年(大正15年)3月に予備役に編入された[1][2][3]。
親族
[編集]栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[5] [6]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従七位[5][7]
- 1894年(明治27年)10月26日 - 正七位[5][8]
- 1899年(明治32年)12月20日 - 従六位[5][9]
- 1904年(明治37年)4月29日 - 正六位[5][10]
- 1907年(明治40年)2月12日 - 従五位[5][11]
- 1911年(明治44年)2月10日 - 正五位[5][12]
- 1915年(大正4年)3月10日 - 従四位[5][13]
- 1917年(大正6年)3月30日 - 正四位[5][14]
- 1920年(大正9年)4月10日 - 従三位[5][15]
- 1923年(大正12年)5月21日 - 正三位[5][16]
- 1930年(昭和5年)7月1日 - 従二位[5][17]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[18]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲五等瑞宝章[19]
- 1915年(大正4年)
- 1919年(大正8年)10月25日 - 勲一等瑞宝章[22]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日大綬章・功二級金鵄勲章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[23]
- 外国勲章佩用允許
受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1909年(明治42年)11月30日[24] | 大清帝国 | 第二等第二品御賜双竜宝星 | ||
? | 中華民国 | 一等文虎勲章 | ||
? | 大韓帝国 | 勲三等太極章 | ||
1915年(大正4年)1月25日[25] | ロシア帝国 | 剣付3等聖公ウラジーミル勲章 | ||
? | ロシア帝国 | 2等聖スタニスラウス勲章 | ||
? | ロシア帝国 | 2等聖アンナ勲章 | ||
? | プロイセン王国 | 2等王冠勲章 | ||
? | プロイセン王国 | 2等赤鷲勲章 | ||
? | バイエルン王国 | 4等鉄冠附武功勲章 | ||
1904年(明治37年)6月23日[26] | バイエルン王国 | 2等第2等聖ミハエル勲章 | ||
? | フランス共和国 | 棕櫚葉付1939年乃至1945年従軍十字章 | ||
? | チェコスロバキア | チェコスロバキア従軍十字章1918年章 | ||
? | イタリア王国 | 戦功十字章 |
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典 第2版』37頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』158頁。
- ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』73頁。
- ^ 『官報』第2524号「授爵・叙任及辞令」1920年12月29日。
- ^ a b c d e f g h i j k l 「陸軍大将大庭二郎特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114011100
- ^ 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日]。
- ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
- ^ 『官報』第6247号「叙任及辞令」904年4月30日。
- ^ 『官報』第7084号「叙任及辞令」1907年2月13日。
- ^ 『官報』第8290号「叙任及辞令」1911年2月13日。
- ^ 『官報』第780号「敍任及辞令」1915年3月11日。
- ^ 『官報』第1397号「叙任及辞令」1917年3月31日。
- ^ 『官報』第2305号「叙任及辞令」1920年4月12日。
- ^ 『官報』第3242号「叙任及辞令」1923年5月23日。
- ^ 『官報』第1090号「叙任及辞令」1930年8月16日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2169号「叙任及辞令」1919年10月27日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』 1909年12月4日 敍任及辭令 。
- ^ 『官報』第744号「叙任及辞令」1915年1月27日。
- ^ 『官報』 1904年7月20日 敍任及辭令 。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦 ~新史料「大庭二郎中佐日記」を中心に~」『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)ISBN 4890632840
- 長南政義「第三軍参謀たちの旅順攻囲戦 ~「大庭二郎中佐日記」を中心とした第三軍関係者の史料による旅順攻囲戦の再検討~」『國學院法研論叢』第39号(國學院大學、2012年)。
- 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(大正13年9月1日調) 14コマ
- 『陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿』(昭和6年4月1日調) 9コマ
軍職 | ||
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先代 山田忠三郎 |
陸軍戸山学校校長 第18代:1908年8月28日 - 1912年9月25日 |
次代 林二輔 |
先代 - |
陸軍歩兵学校校長 初代:1912年8月31日 - 1913年3月29日 |
次代 山田隆一 |
先代 仙波太郎 |
第3師団師団長 第12代:1915年2月15日 - 1919年11月25日 |
次代 菊池慎之助 |
先代 宇都宮太郎 |
朝鮮軍司令官 第3代:1920年8月16日 - 1922年11月24日 |
次代 菊池慎之助 |
先代 秋山好古 |
教育総監 第11代:1923年3月17日 - 1926年3月2日 |
次代 菊池慎之助 |