大谷喜久蔵
大谷 喜久蔵 おおたに きくぞう | |
---|---|
1919年ごろ | |
生誕 |
1856年2月4日 越前国・小浜藩敦賀郡 (現・福井県小浜市) |
死没 | 1923年11月26日(67歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871年 - 1920年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
戦闘 |
日清戦争 日露戦争 シベリア出兵 |
墓所 | 青山霊園 |
大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日(安政2年12月28日) - 1923年(大正12年)11月26日)は、日本の陸軍軍人、華族。
教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。
経歴
[編集]小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。明治4年(1871年)10月から召集を受け大阪鎮台彦根分営所に入営する。1875年(明治8年)12月から陸軍士官学校に入校し、同11年12月卒業する。翌年2月に陸軍歩兵少尉に任官される。士官生徒第2期の同期には第4師団長大迫尚道大将、朝鮮駐剳軍司令官井口省吾大将や、第11師団長の伊地知幸介中将、第13師団長の長岡外史中将がいる。
1883年(明治16年)2月、歩兵中尉に進級し、1886年(明治19年)3月、仙台鎮台参謀を命ぜられる。同年5月に歩兵大尉に進級する。鎮台の師団改編を受けて1888年(明治21年)5月に第2師団参謀と改称。1892年(明治25年)1月、参謀本部第2局員に移り、同年11月、歩兵少佐に進級し、翌月、歩兵第8連隊大隊長に就任する。1893年(明治26年)10月から第6師団参謀に移り、1894年(明治27年)10月、大本営付を命ぜられ日清戦争に出征、1895年(明治28年)4月、中佐に進級する。1896年(明治29年)9月25日、第4師団参謀長に進み、1897年(明治30年)10月11日から大佐進級を以って近衛師団参謀長に就任する。翌年の3月3日、教育総監部本部部長に就き、1900年(明治33年)4月25日、教育総監部参謀、同年10月2日から陸軍戸山学校長を命ぜられる。
1902年(明治35年)6月21日、陸軍少将に進級し、歩兵第24旅団長に就任、1903年(明治36年)7月2日から再び陸軍戸山学校長となる。1904年(明治37年)2月5日、第12師団兵站監、同年3月11日、韓国駐剳軍兵站監、同4月18日、第2軍兵站監、同8月8日、歩兵第8旅団長、1905年(明治38年)4月8日の韓国駐剳軍参謀長と、部隊幹部を歴任した後1906年(明治39年)6月1日から再び陸軍戸山学校長に就任し、同校長を退任した1907年(明治40年)1月28日から教育総監部参謀長、1908年(明治41年)12月19日の名称変更を以って教育総監部本部長に変わり、1909年(明治42年)8月1日の陸軍中将進級の後、同年9月3日、第5師団長に親補される。1915年(大正4年)5月4日、青島守備軍司令官に就任し、同年11月7日、勲一等旭日大綬章を受章、1916年(大正5年)11月16日には陸軍大将に進級する。
1917年(大正6年)8月6日から軍事参議官、1918年(大正7年)8月9日、浦塩派遣軍司令官に就任する。1919年(大正8年)8月26日にはかつて本部長として務めた教育総監部の長たる教育総監に就任し、同時に軍事参議官を兼ねた。1920年(大正9年)11月1日、勲一等旭日桐花大綬章及び功一級金鵄勲章を受章し、同年12月28日を以って予備役編入となる。同日男爵の爵位を授爵し華族に列せられる。
1923年(大正12年)11月26日薨去。大正天皇より勅使差遣。なお没後、実弟の山田信進らが合議の末、襲爵手続きを辞退した為、長男正夫は男爵に列せられることなく大谷男爵家は終わった。
年譜
[編集]- 明治4年(1871年)10月 - 召集を受け大阪鎮台彦根分営所に入営
- 1875年(明治8年)12月 - 陸軍士官学校入校
- 1875年(明治11年)12月 - 卒業
- 1876年(明治12年)2月1日 - 陸軍歩兵少尉任官
- 1883年(明治16年)2月28日 - 歩兵中尉
- 1886年(明治19年)
- 1888年(明治21年)5月 - 第2師団参謀
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)10月 - 第6師団参謀
- 1894年(明治27年)10月、大本営附
- 1895年(明治28年)4月16日 - 中佐
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)10月11日 - 大佐、近衛師団参謀長
- 1898年(明治31年)3月3日 - 教育総監部本部部長
- 1900年(明治33年)
- 4月25日 - 教育総監部参謀
- 10月2日 - 陸軍戸山学校長
- 1902年(明治35年)6月21日 - 陸軍少将、歩兵第24旅団長
- 1903年(明治36年)7月2日 - 陸軍戸山学校長
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年)4月8日 - 韓国駐剳軍参謀長
- 1906年(明治39年)6月1日 - 陸軍戸山学校長
- 1907年(明治40年)1月28日 - 教育総監部参謀長
- 1908年(明治41年)12月19日 - 教育総監部本部長
- 1909年(明治42年)
- 1915年(大正4年)
- 5月4日 - 青島守備軍司令官
- 11月7日 - 勲一等旭日大綬章受章
- 1916年(大正5年)11月16日 - 陸軍大将
- 1917年(大正6年)8月6日 - 軍事参議官
- 1918年(大正7年)8月9日、浦塩派遣軍司令官
- 1919年(大正8年)8月26日 - 教育総監、軍事参議官
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1880年(明治13年)3月2日 - 正八位[2]
- 1883年(明治16年)4月9日 - 従七位[2]
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[2][3]
- 1895年(明治28年)11月15日 - 正六位[2][4]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[2][5]
- 1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[2][6]
- 1907年(明治40年)11月11日 - 従四位[2][7]
- 1909年(明治42年)12月10日 - 正四位[2][8]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 従三位[2][9]
- 1916年(大正5年)12月1日 - 正三位[2][10]
- 1921年(大正10年)1月20日 - 従二位[2][11]
- 勲章等
- 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[2][12]
- 1895年(明治28年)10月16日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章[2][13]
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[2][1]
- 1902年(明治35年)11月29日 - 勲四等瑞宝章[2][14]
- 1904年(明治37年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[2][15]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・勲二等旭日重光章[2]・明治三十七八年従軍記章[16]
- 1912年(明治45年)5月24日 - 勲一等瑞宝章[17][18]
- 1915年(大正4年)
- 1920年(大正9年)
- 外国勲章等佩用允許
- 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス (GCMG)
- 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グランデ・ウッフィチャーレ
- ルーマニア星勲章グランドクロス
- 勲一等八卦章
- 一等文虎勲章
- 戦功十字章
- 従軍章(en)
- チェコスロバキア従軍十字章1918年章(en)
親族
[編集]家紋は三つ追い沢瀉紋。
- 兄:直郎:就将小学校(現敦賀西小学校)訓導、敦賀県教育会議議員[22]
- 弟:信進:小浜藩士山田信光養子、松原村(現敦賀市)初代村長
- 長男:正夫
- 二男:慶治郎
- 甥:山田麒太郎:山田信進長男、正岡子規門弟、号三子、『蕪村句集』編者
- 甥:矢野信吉:山田信進五男、矢野宗四郎養子、大成機工株式会社創業
若狭出身の陸軍将官
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「陸軍大将男爵大谷喜久蔵特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11112870100
- ^ 『官報』第928号「叙任」1886年8月4日。
- ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
- ^ 『官報』第7313号「叙任及辞令」1907年11月12日。
- ^ 『官報』第7941号「叙任及辞令」1909年12月11日。
- ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』第3692号「叙任及辞令」1895年10月18日。
- ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
- ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ a b 『官報』第2524号「叙任及辞令」1920年12月29日。
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
- ^ 『福井県史』通史編5 近現代一 第五節 明治前期の教育・社会 二 近代教育のはじまり 分属時代の小学校
参考文献
[編集]- 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』 (大正3年7月1日調)12コマに記載。
- 『陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿』(大正12年4月1日調) 4コマに記載
- 安藤良夫編著『陸軍大将大谷喜久蔵の年譜』非売品、1993年。
軍職 | ||
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先代 原口兼済 |
第4師団参謀長 第5代:1896年9月25日 - 1897年10月11日 |
次代 村田惇 |
先代 松村務本 |
近衛師団参謀長 第4代:1897年10月11日 - 1898年3月3日 |
次代 牟田敬九郎 |
先代 なし |
教育総監本部部長 初代:1898年3月3日 - 1900年4月25日 |
次代 なし (参謀長に改称) |
先代 依田広太郎 渡辺騏十郎 中村覚 |
陸軍戸山学校長 第13代:1900年10月3日 - 1902年6月21日 第15代:1903年7月2日 - 1904年2月5日 第17代:1906年6月1日 - 1907年1月28日 |
次代 渡辺騏十郎 中村覚 山田忠三郎 |
先代 東條英教 |
歩兵第8旅団長 第8代?:1904年8月18日 - 1905年4月8日 |
次代 石橋健蔵 |
先代 落合豊三郎 |
韓国駐剳軍参謀長 第3代:1905年4月8日 - 1906年6月1日 |
次代 牟田敬九郎 |
先代 中村覚 |
教育総監参謀長 第6代:1907年1月28日 - 1908年12月19日 |
次代 なし (本部長に改称) |
先代 なし (参謀長より改称) |
教育総監本部長 初代:1909年9月3日 - 1913年5月7日 |
次代 本郷房太郎 |
先代 木越安綱 |
第5師団長 第6代:1909年9月3日 - 1915年5月24日 |
次代 小原伝 |
先代 神尾光臣 |
青島守備軍司令官 第2代:1915年5月24日 - 1917年8月6日 |
次代 本郷房太郎 |
先代 なし |
浦塩派遣軍司令官 初代:1918年8月9日 - 1919年8月26日 |
次代 大井成元 |
先代 一戸兵衛 |
教育総監 第9代:1919年8月26日 - 1920年12月28日 |
次代 秋山好古 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 大谷(喜久蔵)家初代 1920年 - 1923年 |
次代 襲爵辞退 |