太田一夫
太田 一夫 おおた かずお | |
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生年月日 | 1910年11月19日 |
出生地 | 愛知県矢作町大字渡(現岡崎市渡町字宮西) |
没年月日 | 1990年11月3日(79歳没) |
死没地 | 愛知県名古屋市 名古屋市立大学病院 |
出身校 | 岩倉鉄道学校 |
所属政党 | 日本社会党 |
称号 |
正四位 勲二等瑞宝章 岡崎市名誉市民 |
選挙区 | 旧愛知4区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1958年5月22日 - 1963年10月23日 1967年1月29日 - 1969年12月2日 1972年12月10日 - 1979年9月7日 |
太田 一夫(おおた かずお、1910年11月19日[1] - 1990年11月3日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(5期、日本社会党)。保革を問わず「いっぷさん」と親しまれた[2]。
来歴
[編集]愛知県矢作町大字渡(現岡崎市渡町字宮西)生まれ[4]。碧海郡矢作高等小学校(現岡崎市立矢作中学校)を経て[5]、1927年(昭和2年)に上京。東京市下谷区の岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に入学。下谷区坂本町4丁目にあった東京朝日新聞の新聞販売店で住み込みで働きながら、昼間は学校に通う[6]。1929年(昭和4年)10月、同校を首席で卒業[7]。12月、名古屋鉄道に入社。
1945年(昭和20年)12月10日、名古屋鉄道労組を結成[4]。1948年(昭和23年)8月、名古屋鉄道労組書記長、私鉄中部地連書記長に就任。同年の最低賃金制闘争では陣頭に立ち、全国私鉄初の24時間ストを断行した[5]。
1956年(昭和31年)12月10日、衆議院議員の伊藤好道が任期中に病死[8]。後継として妻の伊藤よし子の名が挙がる中、日本社会党はトヨタ労組に一言の相談もせずに太田を担ぎ出す[9]。1958年(昭和33年)1月、『月刊岡崎ジャーナル誌』の主幹となる[10]。
1958年(昭和33年)5月22日に行われた第28回衆議院議員総選挙の旧愛知4区で社会党は結局、太田と伊藤よし子の二人に公認を出した。伊藤は亡夫以来のつながりでトヨタ労組の支援を受けたため「自動車対電車の戦い」と世間の耳目を集めた。結果は大方の予想に反し、両者ともに初当選。あおりで小笠原三九郎が落選するハプニングを呼んだ。
1975年(昭和50年)12月、衆議院交通安全対策特別委員長に就任[10]。
1979年(昭和54年)8月10日、高血圧悪化を理由に次期衆院選への立候補辞退を社会党愛知県本部に伝える[11]。同年9月7日の衆議院解散とともに政界を引退。その間5回当選した。
1980年(昭和55年)10月8日、岡崎市市政顧問に就任[12]。1981年(昭和56年)11月、秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。1983年(昭和58年)、城址公園整備懇談会会長に就任[13][14]。
1990年(平成2年)11月3日、名古屋市の名古屋市立大学病院で死去。79歳没。死没日をもって正四位に叙される[15]。翌1991年(平成3年)7月1日、岡崎市名誉市民の称号が贈られる[16]。
衆議院議員総選挙の結果
[編集]執行日 | 選挙 | 所属党派 | 当落 |
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1958年5月22日 | 第28回 | 日本社会党 | 当 |
1960年11月20日 | 第29回 | 日本社会党 | 当 |
1963年11月21日 | 第30回 | 日本社会党 | 落 |
1967年1月29日 | 第31回 | 日本社会党 | 当 |
1969年12月27日 | 第32回 | 日本社会党 | 落 |
1972年12月10日 | 第33回 | 日本社会党 | 当 |
1976年12月5日 | 第34回 | 日本社会党 | 当 |
その他
[編集]新東京国際空港(現成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった[17]。
著書
[編集]- 『歴史のうしろ影――私の鷗外・漱石論 他』星雲社、1982年10月30日。ISBN 4-7952-6201-2。
- 『私の源平盛衰帖』信山社出版、1991年10月22日。ISBN 4-88261-935-0。
脚注
[編集]- ^ 『新訂 政治家人名辞典』日外アソシエーツ、2003年10月27日、111頁。
- ^ 『中日新聞』1990年11月4日付朝刊、「元社党代議士 私鉄総連顧問 太田一夫氏死去」。
- ^ 『東海タイムズ』1958年9月1日、「めおと善哉 妻の芳江さん」。
- ^ a b 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日、10頁。
- ^ a b 『愛知新聞』1958年3月12日、「鋭い感覚と活動力 名鉄労組書記長 太田一夫さん」。
- ^ 太田一夫『歴史のうしろ影――私の鷗外・漱石論 他』星雲社、1982年10月30日、161頁、162頁、187頁頁。
- ^ 『中部日本新聞』1960年11月2日付朝刊、三河版、「立候補者の横顔と公約」。
- ^ 『東海新聞』1956年12月11日、1面、「伊藤好道代議士逝去 15日党葬、18日挙母で葬儀執行」。
- ^ 中日新聞社会部編『あいちの政治史』中日新聞本社、1981年10月29日、151-153頁、293-294頁頁。
- ^ a b 太田一夫『私の源平盛衰帖』信山社出版、1991年10月22日、著者略歴頁。
- ^ 『朝日新聞』1979年8月21日付朝刊、尾張版、12面、「選挙区夏の陣 (4) 『太田辞退』で波紋 くっきりと自社に明暗」。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、615頁。
- ^ “市政だより おかざき No.503” (PDF). 岡崎市役所. p. 4 (1983年9月1日). 2020年5月6日閲覧。
- ^ 岡崎市議会議事録 昭和58年9月定例会 - 09月07日 - 12号
- ^ 『官報』第505号9-10頁 平成2年11月13日号
- ^ 名誉市民 | 岡崎市ホームページ
- ^ “第065回国会 予算委員会 第7号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月4日閲覧。