津藩
津藩(つはん)は、伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。伊賀国の上野城も所有した。石高は当初伊勢・伊賀2国を合わせた22万石で、大坂の陣の後に山城国・大和国(いわゆる「城和領」)などが加増され最大32万3000石となった。
藩史
[編集]戦国時代の津は安濃津と呼ばれ、長野工藤氏の支配下にあった。永禄11年(1568年)、織田信長の伊勢侵攻で長野工藤氏は信長に降伏し、信長の弟・信包を養子に迎えて当主とした。信長没後、信包は豊臣秀吉に仕え、文禄3年(1594年)に2万石を削減されて近江に移封された。
代わって、富田知信が5万石で入った。知信は慶長4年(1599年)に死去し、跡を子の信高が継いだ。信高は徳川家康に接近し、家康主導による会津征伐に参加し、石田三成ら西軍が挙兵すると本国に戻り、西軍の伊勢侵攻軍である毛利秀元や長束正家と戦い、敗れて高野山に逃れた(安濃津城の戦い)。関ヶ原の戦い後、家康は信高を2万石加増の7万石で安濃津城主として復帰させた。慶長13年(1608年)8月24日、信高は伊予宇和島藩に移封された。
翌日の8月25日、伊予今治藩10万石から藤堂高虎が22万石に加増された上で入った。内訳は伊予越智郡今治2万石、伊賀国内10万石、伊勢安濃郡、一志郡内10万石で計22万石である。
高虎は江戸城の普請などにも功を挙げて家康から絶大な信任を受け、外様でありながら早くから別格譜代の厚遇を受けることとなる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも家康側に与して戦功を挙げた。伊賀上野藩主・筒井定次の改易もあって伊勢津藩は伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石となり、更に元和3年(1617年)新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、高虎の弟藤堂正高の下総国の所領3千石も津藩領に編入し、最終的に32万3000石を領する大大名となった。
なお、田丸5万石は元和5年(1619年)に和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられた。
藩政は初代藩主・高虎の時代に行われた城郭普請や家臣団編成、農業制度改革、城下町建設などで確立する。
第2代藩主・藤堂高次は寛文9年(1669年)9月29日に隠居する際、子の第3代藩主・藤堂高久に命じて次男藤堂高通に5万石を分与して、支藩である久居藩を立藩させた。このため、津藩は27万3950石となった。高久も元禄10年(1697年)10月5日に藤堂高堅に3000石を分与して、27万950石となった。高久は藩財政再建のため、地方知行制の廃止と蔵納制の移行、田畑永代売買の禁止、新田開発、商業統制などを行ったが、効果はなかった。
第4代藩主・藤堂高睦の在職期には3度にわたる地震などの天災に見舞われた上、藤堂家の嫡流も高睦をもって早くも終焉し、以後は支藩・久居藩から招かれて藩主となった者が多い。第5代藩主・藤堂高敏、第6代藩主・藤堂高治、第7代藩主・藤堂高朗(藤堂高豊)らはいずれも久居藩主を経て、津藩主になった面々である。なお、これら養子藩主時代は幕命による手伝い普請などによる出費や天災・凶作が相次いで藩財政は悪化した。
第9代藩主・藤堂高嶷も久居藩から津藩主となった養子藩主で、藩財政の再建を中心とした藩政改革を行ったが、あまりに急性すぎる改革は周囲の反発を受け、寛政年間に津藩最大の百姓一揆が発生して改革は挫折した。
特筆すべき藩主が、第10代藩主・藤堂高兌である。高兌も久居藩から転任した藩主で高嶷の実子だったが、すでに久居藩主時代からその敏腕をもって藩政の再建に成功していた。このため、津藩の藩政でも綱紀粛正・倹約・植林や養蚕の奨励、福祉政策、文武の奨励などを実行して藩政改革を成功させ、藤堂家中興の英主と讃えられた。また、文武を推奨して藩校「有造館」を創設、伊賀にも藩校「崇広堂」を創設した。各武術の稽古場も整備され、剣術では新陰流、若山流、戸波流などの流儀が修練された。
高兌の跡を継いだ第11代藩主・藤堂高猷の時代には、凶作や地震などの天災が相次ぎ、藩の借金は明治に至るまでに212万両にまで達したといわれる。
幕末には幕府から黒船来航への対策として鳥羽藩とともに伊勢神宮と伊雑宮の防衛を命じられ、志摩地方の沿岸部には次々と台場が築かれ大砲が設置された[1]。
慶応3年に幕命を受けて、山崎関門の守衛の任に就く。その後の王政復古により新政府が誕生した後も、政府命令で引き続き山崎関門の守衛を続けた。1868年(慶応4年)1月に鳥羽・伏見の戦いが始まると、「薩長と会桑の私闘にくみしない」として中立を保っていたが、新政府の四条隆平が津藩陣営に勅使として訪れ、敗退した旧幕府軍への追撃を命じる。津藩守備隊を指揮していた藤堂元施と吉村長兵衛は、勅命が出た以上は官軍に協力することを決意し、対岸の幕軍砲台を砲撃して官軍の勝利に大きく貢献することになった。当初こそ中立を宣言していたものの、旧幕府側からは味方と思われていたため、「藤堂の犬侍」「その行い、藩祖(高虎)に似たり」とそしられた。その後、津藩兵は戊辰戦争で東海道の先鋒となって、各地で旧幕府軍と戦った。
1869年(明治2年)の版籍奉還で、高猷は津藩知事に任じられる。しかし1870年(明治3年)には高猷が行った藩政改革で平民による部隊が編成され、これに不満を持った士族派の長谷部一(藤堂監物)らが反対して処刑されるという庚午事変(監物騒動)が起こるなどしている。また、伊賀4郡で打ちこわし(平高騒動)も起こっているなど、高猷の失政が目立った。
1871年(明治4年)6月28日、高猷は隠居し、第12代藩主と津藩知事には藤堂高潔が就任したが、直後の7月14日に行われた廃藩置県で津藩は廃藩となり、安濃津県となった。1872年(明治5年)に三重県と改称され、1876年(明治9年)には度会県が三重県に編入された。
歴代藩主
[編集]富田家
[編集]外様。5万石→7万石(1595年-1608年)
藤堂家
[編集]外様。22万950石→27万950石→32万3950石→27万3950石→27万950石(1608年-1871年)
幕末の領地
[編集]明治維新後、山辺郡1村が柳生藩領から柳生藩・津藩の相給となって領地に加わった。
久居藩
[編集]久居藩(ひさいはん)は、伊勢国久居周辺(三重県旧久居市、現在は合併により津市)を支配した津藩の支藩。
久居藩史
[編集]寛文9年(1669年)、津藩の第2代藩主・藤堂高次が隠居して家督を子の藤堂高久に譲ったとき、次男の藤堂高通に5万石を分与して津藩の支藩である久居藩を立藩した。しかし城主格の大名でありながら、築城を許可されず、久居陣屋と城下町を建設するに留まった。
久居藩は高次が本家の嗣子が絶えた場合の無嗣子による改易に備えて設置した藩である。元禄10年(1697年)に高通の跡を継いだ藤堂高堅は、3000石をさらに分与されて5万3000石を領する藩主となる。久居藩の内部状況であるが、常に津藩の本家の慣習を踏襲し、相談も行うこととなったが、5回に渡って江戸藩邸が焼失し、さらに連年にわたって凶作が相次ぐなどの悪条件も重なって、第5代藩主・藤堂高豊、第6代藩主・藤堂高雅の頃から財政悪化が顕著となった。
そのため、倹約令を出して俸禄の借り上げを行ったが、その後も天明の大飢饉、天保の大飢饉、甲州の諸川の手伝い普請などから、遂に財政は破綻寸前となった。しかし名君で有名な第12代藩主・藤堂高兌の藩政改革により、藩財政は再建された。しかし高兌の死後(高兌は本家の藩主となっていた)、再び久居藩は財政が悪化し、第15代藩主・藤堂高聴は新田開発や雲出川の治水工事に取り組むことで藩政を再建しようとした。この改革は成功し、再び久居藩は再建された。
幕末期は本家の津藩と共に天誅組討伐に参加した。明治2年(1869年)、第16代藩主・藤堂高邦は版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で久居藩は廃藩となって久居県、安濃津県、翌年には三重県に編入された。久居藩領の一志郡は久居県を経て度会県となり、明治9年(1876年)には三重県に編入されることとなった。
歴代藩主の多くは若死、もしくは本家の津藩を継承した者が多い。
歴代久居藩主
[編集]- 藤堂家
外様。5万石→5万3000石→5万8700石。
幕末の領地
[編集]- 山城国
- 相楽郡のうち - 14村
- 大和国
- 添上郡のうち - 4村
- 広瀬郡のうち - 1村
- 式上郡のうち - 1村
- 十市郡のうち - 7村
- 山辺郡のうち - 15村
- 伊勢国
- 三重郡のうち - 11村
- 河曲郡のうち - 16村
- 鈴鹿郡のうち - 7村
- 安濃郡のうち - 15村
- 一志郡のうち - 16村
家老
[編集]- 津藩家臣団を参照
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 深谷克己『津藩』(吉川弘文館、2002年) ISBN 4-642-06660-8
- 深谷克己『藩政改革と百姓一揆 津藩の寛政期』(比較文化研究所、2004年) ISBN 4-902292-01-7
関連項目
[編集]関連リンク
[編集]- 津藩(藤堂和泉守高敦) - 武鑑全集(人文学オープンデータ共同利用センター)
- 久居(藤堂佐渡守高矗) - 武鑑全集(人文学オープンデータ共同利用センター)
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