容庚
容 庚 | |
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『民國名人圖鑑』より | |
出身地: | 広東省広州府東莞県 |
職業: | 考古学者(中国考古学、金石学) |
各種表記 | |
繁体字: | 容 庚 |
簡体字: | 容 庚 |
拼音: | Róng Gēng |
和名表記: | よう こう |
発音転記: | ロン・ゴン |
容 庚(よう こう、1894年9月5日 - 1983年3月6日)は、中国の考古学者・金石学者・古文字学者。その著作『金文編』・『商周彝器通考』によって知られる。名ははじめ肇庚、のちに庚。字は希白。室名は頌斎。
生涯と業績
[編集]容庚は広東省広州府東莞県の学者の家に生まれた。古文字学は母方の叔父に学んだ[1]。中学卒業後は上の学校に上がらず、『金文編』を編纂した。1922年に『金文編』の原稿を持って天津の羅振玉を訪れ、羅振玉の推薦によって北京大学研究所の研究生になり、1926年に卒業した。その間の1925年に『金文編』を完成、出版している。
『金文編』は当時知られていた殷周青銅器の文字を『説文解字』の順にまとめた字典で、金文の研究を行う上できわめて有用な書物であった。その後新しい青銅器が知られるに従って増補改訂された。秦・漢の青銅器を対象とした『金文続編』(1935)、『金文編 修訂本』(1939)、『金文編 増訂本』(1959)がある。容庚没後の1985年に、馬国権・張振林によって増補された『金文編』が中華書局から出版された。
1925年に故宮博物院が発足すると、その鑑定委員会の委員となった[2]。
1926年に燕京大学の準教授(翌年に教授)となり、また『燕京学報』の主編をつとめた。1941年には大著『商周彝器通考』(上下2巻、哈佛燕京学社)を出版した。同年、太平洋戦争がはじまると日本が燕京大学を閉鎖したため、容庚は北京大学で教えた。戦後、日本統治下の「偽」北京大学で教えたことを批判されて大学にいられなくなり、広東省に帰った。ほどなく嶺南大学中文系の教授に招かれ、かつ嶺南大学学報の主編をつとめた。中華人民共和国成立後、1952年に嶺南大学が中山大学に併合されると、そのまま中山大学の中文系の教授となり、終生その職にあった[2]。
文化大革命では批判され、草取りなどの労働を強制されたが、その中でも『叢帖目』などの著作を執筆した[3]。
中華書局から『容庚学術著作全集』(全21巻、2011年)が刊行されている。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 張維持・曾憲通. “容庚教授”. 中山大学. 2015年1月13日閲覧。
- 易新農 (2011年7月21日). “我為什麼寫《容庚傳》”. 南方日報. 2015年1月13日閲覧。