小田川全之
小田川 全之(おだがわ[1]/おたがわ[2] まさゆき、1861年4月1日(文久元年2月22日[1][2]) - 1933年(昭和8年)6月29日[1][2])は、明治から大正時代の実業家。古河財閥幹部。
経歴
[編集]幕臣・小田川彦一の長男として江戸に生まれる[3]。父は初め彦助と称し、御賄御膳役から1866年(慶応2年)小筒組肝煎となり、明治維新を経て妻子を伴い沼津に移住した[4]。1869年(明治2年)には生育方を経て、同年11月に郡方捕亡役となった[5]。
全之は沼津兵学校付属小学校に入学し、同輩の真野文二や田辺朔郎らと共に学び、同校が1873年(明治6年)1月に集成舎となってからは変則科に通学した[5]。1874年(明治7年)同校を修了すると、父は印旛、熊谷などに出仕し、全之はこれに従い、熊谷町の暢発学校で教鞭を執った[5]。1875年(明治8年)東京英語学校(のち大学予備門と改称、第一高等学校、現東京大学教養学部の前身)に入り[5]、1883年(明治16年)5月には工部大学校土木科を卒業した[2]。
卒業後は、群馬県に出仕し、のち1886年(明治19年)まで東京府に務め、道路や橋梁などの建設に従事する[2]。ついで1887年(明治20年)から3年間、工務所を開設し民間土木事業を請け負った[2]。1890年(明治23年)古河市兵衛の知遇を得て古河家に入り、足尾銅山の土木事業を指揮する[2]。1897年(明治30年)からは足尾銅山鉱毒予防工事を担当し、1900年(明治33年)土木・鉱山事業の調査のため欧米を視察した[2]。1903年(明治36年)古河本店(古河鉱業、古河機械金属の前身)理事となり、1911年(明治44年)から1915年(大正4年)まで足尾鉱業所長を務め、1921年(大正10年)まで古河財閥の諸事業に関与した[2]。この間、1909年(明治42年)足尾鉄道を創立し社長に就任したほか[2]、1921年(大正10年)古河銀行監査役に就任した[1]。
学会歴としてはアメリカ鉱業会、土木学会、イギリス土木学会、電気学会の会員に列した[2]。墓所は多磨霊園。
親族
[編集]- 妻むつ(1866年生、女子学院出身) 菊地濯生三女[6]
- 長女みつ(1887年生、日本女子大学家政科出身)矢島守一二男俊吉の妻。[6]
- 長男の小田川達朗(1890-1945)は京都帝国大学工学部教授で、財団法人物理探鑛研究会理事を務めた工学博士。その妻・美佐雄は三井高明の姪。相婿に男爵高木兼寛三男・舜三(帝国生命保険取締役)。[7][8]
- 二女まつ(1892年生、日本女子大学、女子美術学校出身)台湾銀行大阪支店長(のち上海支店長、理事)近藤清三の妻。[6]
- 二男芳朗(1896年生、慶應義塾大学出身)妻の照子は男爵古河虎之助の妹で女子学習院出身。[6]
- 三男重雄(1898年生、慶應義塾大学出身)大阪府多額納税者で森平汽船社長・学校法人樟蔭学園創立者の森平蔵の養子となる。妻の素子は大谷光演の娘、伯爵大谷光暢の姉。[9][6]
- 四男鋼吉(1903年生、法政大学出身)妻の芳子は浜岡光哲の孫。[10][6]
- 姉とよ 花島兵右衞門の妻。花島は日本の煉乳製造業の先駆者で、靜岡県多額納税者、三島銀行頭取。[6]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大野虎雄『沼津兵学校附属小学校』大野虎雄、1943年 。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。
- 高橋裕、藤井肇男 共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。ISBN 4306094294。