山名義理
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山名義理 | |
時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 延元2年/建武4年(1337年) |
死没 | 不明 |
官位 | 修理大夫、弾正少弼 |
幕府 | 室町幕府 美作・紀伊守護 |
主君 | 足利義詮→義満 |
氏族 | 山名氏 |
父母 | 父:山名時氏 |
兄弟 | 師義、義理、氏冬、氏清、義継、時義、時治、氏頼、氏重、義数、高義 |
子 | 義清、氏親、時理 |
山名 義理(やまな よしただ/よしまさ)は、南北朝時代の守護大名。美作国・紀伊国守護。
略歴
[編集]延元2年/建武4年(1337年)、山名時氏の次男として誕生。
正平21年/貞治5年(1366年)、弟・時義に代わって美作守護に任ぜられる。建徳元年/応安3年(1370年)6月、内談に出仕。天授4年/永和4年(1378年)、紀伊で挙兵した南朝方の橋本正督討伐を命じられ弟・氏清と出兵、紀伊守護を兼ねる。
元中8年/明徳2年(1391年)、山名氏の弱体化を図る3代将軍・足利義満の挑発に乗って氏清と甥・満幸が謀叛を決断。氏清は義理の分国紀伊を訪ねて同心を説得、義理は躊躇するが、氏清の熱弁に圧されて同意する。氏清と満幸は挙兵して京へ攻め込むが敗れて氏清は討死、満幸は逃亡した。義理は兵を発せずに紀伊から動かなかった(明徳の乱)。
乱後に義理は義満に謝罪するが、義満は許さず紀伊と美作を没収して大内義弘と赤松義則へ与えた。美作の兵は赤松義則に降伏、元中9年/明徳3年(1392年)に大内義弘は兵1000騎をもって義理が在国している紀伊へ討ち入った。義理は抗戦を試みるが紀伊の国人は皆背いてしまった。義理は一族63人と共に舟で脱出して紀伊由良湊まで逃げ込み、この地の興国寺で子の氏親、時理ら17人と共に剃髪して出家した。その後の動向は不明。
孫(義清の子)の山名教清は後に嘉吉の乱で功績を挙げ、石見国及び美作守護として大名に復帰した。