島津忠彦
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島津 忠彦 | |
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生年月日 | 1899年8月30日 |
出生地 | 日本 鹿児島県鹿児島市清水町[1] |
没年月日 | 1980年5月12日(80歳没) |
出身校 | 成蹊実業専門学校本科卒業 |
前職 | 実業家 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
勲二等旭日重光章 男爵 |
親族 |
島津珍彦(祖父) 島津忠欽(祖父) |
在任期間 | 1939年7月10日 - 1947年5月2日 |
選挙区 | 鹿児島地方区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1956年6月3日 |
島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月30日[2] - 1980年(昭和55年)5月12日[2][3])は、昭和期の日本の実業家、政治家、華族(男爵)。貴族院男爵議員、参議院議員(2期)。重富島津家第8代当主(越前島津家第23代当主[4])。
経歴
[編集]鹿児島県[5]鹿児島市清水町出身[1]。男爵・島津壮之助の長男として生まれる[2][6]。父の死去に伴い、1925年(大正14年)4月15日、男爵を襲爵した[2][7]。
鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制) を経て[1]、1923年(大正12年)成蹊実業専門学校本科を卒業[3]。三菱銀行に勤務[6](約10年間[1])。以後、三和電機社長、鈴木商店代表者、鹿児島製紙興業社長などを務めた[3][8]。
1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[9][10]、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任[3]。大蔵省委員も務めた[3]。
戦後、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙に鹿児島地方区に出馬して当選し(任期3年)、第2回通常選挙でも再選された[8]。その後、自由民主党に所属し、参議院電気通信委員長を務めた[8]。その他、帝都高速度交通営団理事、阪神高速道路公団監事を務めた[5]。
1969年(昭和44年)秋の叙勲で勲二等旭日重光章(勲四等からの昇叙)[11][12]。
親族
[編集]- 祖父 島津珍彦[2] - 侍従、貴族院男爵議員、教育行政家
- 母 島津鶴(島津忠欽四女)[2]
- 先妻 績子(ことこ、甘露寺受長長女、離縁)[2]
- 後妻 凛(りん、久保田潤一郎二女)[2]
- 弟 加藤久幹(子爵加藤克明婿養子)[2] - 洋画家
- 養子・島津晴久(旧姓・丸山、忠彦の妹の夫の甥) - 越前島津家第24代当主、学芸員・博物館行政家(千葉県教育委員会職員等)[4]
脚注
[編集]- ^ a b c d 『南日本新聞』1950年6月6日、1頁。
- ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成 上巻』739-740頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73-74頁。
- ^ a b 朝日新聞鹿児島総局 編『薩摩の殿』南方新社、2008年10月6日、26-27頁。ISBN 978-4-86124-143-7。
- ^ a b 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』304頁。
- ^ a b 『人事興信録 第14版 上』シ63頁。
- ^ 『官報』第3792号、大正14年4月16日。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』327頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、48頁。
- ^ 『官報』第3758号、昭和14年7月17日。
- ^ 「島津 忠彦」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』 。コトバンクより2023年1月2日閲覧。
- ^ 『官報』号外第146号2頁 昭和44年11月4日号
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』社団法人霞会館、1996年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
議会 | ||
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先代 左藤義詮 |
参議院電気通信委員長 | 次代 廃止 |
日本の爵位 | ||
先代 島津壮之助 |
男爵 (重富)島津家第3代 1925年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |