工藤修
工藤 修 | |
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空母「加賀」勤務時代の工藤。(1938年) | |
生誕 |
1915年 日本 大分県 |
死没 |
1942年3月3日 オーストラリア ブルーム |
所属組織 | 日本海軍航空隊 |
軍歴 | 1931年 - 1942年 |
最終階級 |
飛曹長 特務中尉(死後特進) |
工藤 修(くどう おさむ、1915年 - 1942年3月3日)は、日本の海軍軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。第二次世界大戦中には撃墜王の1人としてその名を知られた。公式の撃墜記録は7機。最終階級は飛曹長、戦死後2階級特進で飛行特務中尉[1]。
略歴
[編集]1931年(昭和6年)6月1日、飛行予科練習生(のちに乙種と呼ばれる)2期生として入隊。同期生に小泉藤一、東山市郎ら。1935年(昭和10年)4月に飛行練習生課程を卒業、大村海軍航空隊に配備された。
昭和12年7月、第十三航空隊に配属され、上海公大飛行場に配置された。9月19日、和田鉄二郎少佐指揮する爆撃隊(九六式艦上爆撃機18機)、制空隊(九六式艦上戦闘機12機)で第1次南京空襲が敢行され、工藤は菅波政治中尉の第2小隊2番機として参加。カーチス・ホークⅢ(新ホーク)2機と遭遇するも、遁走し撃墜には至らなかった。その後、急降下攻撃して来た新ホーク1機に反撃し不確実撃墜。続いて新ホーク1機を南京南西方の飛行場に追い詰め撃墜(搭乗員はパラシュートで脱出)[2]、初撃墜を記録した。しかし自らも被弾し、帰途で揚子江に着水、救助された[1]。11月、本土に帰還。
1938年(昭和13年)1月、加賀戦闘機隊に配属。4月以降、華中・華南へ艦爆隊の掩護として従事。4月13日、広東省広州の天河・白雲飛行場空爆で艦爆隊の護衛として出撃。この時、蝶野仁郎一空曹機を襲撃しようとした李煜榮操縦のグロスター グラディエーター2910号機(この直後、加勢した黄広慶操縦の2917号機の車輪と接触し墜落)に銃撃を加えたとの記述もあるが[3]、この時工藤は艦戦隊指揮官だった手島秀雄大尉の発動機不調で2番機の磯崎千利二空曹とともに引き返したため、空戦には参加しておらず[4]、近藤政市一空曹と混同したものと思われる。同日午後、従化飛行場爆撃へ手島大尉の2番機として再び出撃したが、会敵しなかった[4]。
8月30日、南雄攻撃に手島大尉の2番機として参加、南雄飛行場に駐留していた中国空軍第3大隊第32中隊(大隊長呉汝鎏、中隊長朱嘉勲)[5][6]のグロスター グラディエーター9機と交戦、うち2機を撃墜したが、手島大尉も戦死した[1]。年末、赤城戦闘機隊に転属。その後百里原海軍航空隊(宗雪新之助大佐)、空曹長に昇進[1]。
1941年(昭和16年)9月、第三航空隊(亀井凱夫大佐)戦闘機隊新設に伴い同分隊士となる。同隊には、第十三航空隊所属当時僚機だった赤松貞明も転属した。12月8日にルソン島攻撃に参加するも、途中で故障のため引き返す[1]。12月10日にルソン島再攻撃に参加し、共同撃墜9機[1]。
1942年3月3日、オーストラリア・ブルームへの空襲の中で撃墜され戦死した。工藤を撃墜したのは、オランダ領東インド陸軍航空隊(ML-KNIL)のガス・ウィンケル中尉が搭乗する、7.99mm機関銃を搭載したロッキード・ロードスターであったという。
戦死後、連合艦隊司令長官より全軍布告で戦死後2階級特進[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 秦,伊沢 2011, p. 217.
- ^ 「第13空機密第47号の7 南京空襲戦闘詳報(其の1) [自9月19日至9月25日南京空襲部隊として実施せしもの] 第13航空隊(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C14120304100
- ^ Raymond Cheung (2015). Aces of the Republic of China Air Force. Osprey Publishing. p. 65. ISBN 978-1-4728-0561-4
- ^ a b 「戦闘詳報(南支第7次作戦) 軍艦加賀 自昭和13年4月3日至昭和13年4月21日(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C14120556600
- ^ “百战荣归“飞将军”——融安板榄籍飞行员韦鼎烈、韦鼎峙抗日空战事略” (中国語). 柳州档案局. 2018年2月19日閲覧。
- ^ “抗战飞行员吴汝鎏” (中国語). 广州文史. 2018年2月19日閲覧。
参考文献
[編集]- 秦郁彦、伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4-499-23045-2。