市河寛斎
市河 寛斎(いちかわ かんさい、寛延2年6月16日(1749年7月29日) - 文政3年7月10日(1820年8月18日))は、江戸時代の儒学者、漢詩人。名は世寧、通称は小左衛門[1][1]、字は子静、嘉祥、号は寛斎、半江、江湖詩老。岳父に多胡碑を紹介した書家の高橋道斎、子に幕末の三筆・市河米庵、画家の鏑木雲潭らがいる。
概説
[編集]市河家は清和源氏に連なり、甲斐武田氏の庶流にあたるとされる[2]。市河家は上野国甘楽郡(現在の群馬県)で帰農していたが、寛斎の父・好謙(蘭台)が山瀬家の養子となって館林藩秋元氏に仕えた[2][3][1]。
寛斎は山瀬好謙の次男として寛延2年(1749年)6月16日、江戸に生まれた[2]。当初は山瀬新平を名乗り、兄・一英とともに館林藩に仕官した[2][1]。寛斎は安永4年(1775年)に館林藩を退き甘楽郡に移り、祖父・市河小左衛門の名乗りを継いだ[1]。下仁田の書家・学者の高橋道斎の養女の婿となったが、ほどなく離縁し江戸に出てしまった。その後に生まれた子が克順であるとされている[2]。
江戸では林家に学び、天明3年(1783年)には林家の私塾・昌平黌の学頭の地位に就いたが、天明7年(1787年)に病気を理由に退いた[1][2]。寛政2年(1790年)に寛政異学の禁を批判したため昌平黌を追われ[注釈 1]、寛政3年(1791年)から文化8年(1811年)まで富山藩藩校広徳館の教授となった。また掛川藩世子の侍講も務めた[5]。
文化10年(1813年)には長崎奉行・牧野成傑に招かれて長崎に翌年まで滞在している[2]。
また、天明7年(1787年)に神田で江湖詩社を開き、大窪詩仏・柏木如亭・菊池五山らに漢詩を指導した[6]。寛斎を含めたこの4名は「今四家」と呼ばれ文化12年(1815年)には『今四家絶句』が出版されている。
文政3年(1820年)7月10日、江戸で死去、戒名は「文安院寛斎日長居士」[2]。墓所は荒川区西日暮里の本行寺にあり、東京都旧跡に指定されている[7]。
著書
[編集]- 『詩家法語』天明2年(1782年)刊[2]
- 『古五絶』
- 『北里歌』
- 『日本詩紀』 - 日本の奈良時代から平安時代末までの漢詩約3,800首を集めて作者別に編成した詩集で、目録1巻、本集50巻、別巻1巻、外集1巻より構成される。
- 『寛斎摘草』
- 『帝範』
- 『寛斎百絶』
- 『全唐詩逸』文化元年(1804年)刊 - 康熙帝の勅撰漢詩集で唐代全部の詩を収録したとされる『全唐詩』から遺漏したものを集めて出版したもので、これは、当時の中国の学者をおおいに驚かせている。上野国群馬郡西明屋(現・高崎市)の下田漆園(連蔵)の財政面での支援によって出版が実現した[1]。
- 『傲貝詩』文化2年(1805年)刊
- 『金石私志』
- 『三家妙絶』 - 宋の范石湖、楊誠斎、陸放翁の詩を集めた
- 『随園詩鈔』
- 『芥園瑣録』
- 『談唐詩選』
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 群馬県史編さん委員会 1992, pp. 330–331.
- ^ a b c d e f g h i j 井田金次郎 編「市川寛斉」『上毛書家列伝』 下、みやま文庫、1984年3月30日、73-90頁。doi:10.11501/12428512。(要登録)
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 市河蘭台
- ^ 群馬県史編さん委員会 1992, pp. 434–435.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 市河寛斎
- ^ “荒川ゆうネットアーカイブ > 史跡・名所(日暮里) > 日暮里(写真解説)”. www.city.arakawa.tokyo.jp. 2024年10月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編6 近世3、群馬県、1992年1月28日。doi:10.11501/9644587。(要登録)
関連文献
[編集]- 村上哲見 『漢詩の名句・名吟』 講談社現代新書、1990年、ISBN 4061490265
- 揖斐高訳注 『市河寛斎 大窪詩仏 江戸詩人選集5』 岩波書店、1990年、再版2001年
- 西岡淳、蔡毅訳注 『市河寛斎 日本漢詩人選集9』 研文出版、2007年