拓跋氏
拓跋 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 拓跋 |
簡体字: | 拓跋 |
拼音: | Tuòbá |
注音符号: | ㄊㄨㄛˋㄅㄚˊ |
ラテン字: | Tuoba |
広東語発音: | Tok3bat6 |
上海語発音: | Thoh4beh4 |
台湾語白話字: | Thok-po̍at |
拓跋氏(たくばつし)は、中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を有した鮮卑拓跋部の中心氏族であり、狭義的には拓跋鄰の直系であり、後に鮮卑を統一し中国において北魏を建国した家系である。北魏では第5代皇帝献文帝まで国姓であったが、孝文帝のときに元氏と改姓された。
沿革
[編集]もともと、鮮卑は匈奴の支配下にあったものが、独立して次第に匈奴を漠北に追いやって勢力を築き、部族の中から檀石槐がすべての部族をまとめて統治していた。しかし彼の死後、部族間で相争う中で鮮卑の一部族であった拓跋部が台頭し、その中心氏族である拓跋氏が華北を統一し、北魏を建国するに至った。
鮮卑の大人(部族長)の家系は一定せず、安定的な世襲がなされていたわけではなかった。しかし、後漢末から鮮卑の部族内で首長の地位は世襲されていくようになっていたという。ちなみに、拓跋氏は複数の家系からなり、有力な世襲家系が10姓存在し、百世を経ても通婚しないということを掟として、必ず他の部族との婚姻をする族外婚を原則としていたとされる。
拓跋氏が台頭するのは3世紀後半に鮮卑の大人として台頭した拓跋力微以降である。その孫の拓跋猗盧は、西晋に協力して匈奴の劉淵と戦った戦功により、大単于の称号を与えられて代公に封ぜられ、陰山地方に所領を得た。拓跋猗盧は万里の長城の内城地域にさらなる領土割譲を要求し、これに成功した。彼が子の拓跋六脩に殺害されると、拓跋猗盧の甥の拓跋鬱律が継いだ。
この後も、拓跋鬱律が伯父の拓跋猗㐌の妻の惟氏に殺害され、その子の拓跋什翼犍や孫(拓跋什翼犍の嫡長子)の拓跋寔が反乱により死去するなど、拓跋氏の単于位は不安定であった。このため、拓跋氏の国である代は前秦の苻堅に攻められ、一時的に滅亡の憂き目に遭う。
しかし、拓跋寔の子の拓跋珪は旧民を糾合して代王に即位し、盛楽を王都として自立した。さらに、漠北の柔然を倒すなどの勢威を見せ、ついには匈奴鉄弗部をも滅ぼし、華北・山西を中心とする北魏を建国するに至った。その後、拓跋氏は北魏の第5代皇帝献文帝まで拓跋を国姓としていたが、第6代皇帝孝文帝に至ってさらなる漢化を図るため元氏に改姓した。
北魏の分裂後、中国を再統一した隋・唐王朝も拓跋部出身貴族の楊氏・李氏が建てたものであり、突厥などの中央アジア民族からは「タブガチ」(「拓跋」の転訛)と呼ばれたことが、古テュルク文字の碑文によって確かめられる(詳細は中国#「拓跋」に由来する呼称を参照)。なお、楊氏・李氏自身は漢人出身を主張しており、出身に対する論争は唐の太宗李世民のときにまで遡ることが確認[要出典]されている。
後に西夏を建国したチベット系タングートの首長一家は拓跋氏であった(後に唐より李姓を賜る)。拓跋部と関係があるとする説もあるが、恐らくは拓跋部の盛名にあやかったものと見られている。
拓跋氏の政権
[編集]系図
[編集]拓跋部 | (1)拓跋毛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(13)拓跋鄰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(14)拓跋詰汾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禿髪匹孤 | (15)拓跋力微 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(南涼) | (16)拓跋沙漠汗 | (17)拓跋悉鹿 | (18)拓跋綽 | (東部)拓跋禄官 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(中部)拓跋猗㐌 | (19)拓跋弗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代 | (1)拓跋猗盧 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)拓跋普根 | (5)拓跋賀傉 | (6,8)拓跋紇那 | 拓跋六脩 | (4)拓跋鬱律 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3拓跋? | (7,9)拓跋翳槐 | (10)拓跋什翼犍 | 拓跋孤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拓跋寔君 | (追)拓跋寔 | 拓跋窟咄 | 拓跋斤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北魏 | (1)道武帝 拓跋珪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)明元帝 拓跋嗣 | 清河王 拓跋紹 | 陽平王 拓跋煕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)太武帝 拓跋燾 | 淮南靖王 拓跋他 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景穆帝 拓跋晃 | 東平王 拓跋翰 | (4)南安王 拓跋余 | 元鍾葵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)文成帝 拓跋濬 | 南安王 拓跋楨 | (僭)元法僧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)献文帝 拓跋弘 | 中山王 元英 | 章武王 元彬 | 扶風王 元怡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(7)孝文帝 元宏 | (追)先帝 元羽 | 北海王 元詳 | (追)文穆帝 元勰 | 章武王 元融 | (11)東海王 元曄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
廃太子 元恂 | (12)節閔帝 元恭 | (僭)北海王 元顥 | (追)孝宣帝 元劭 | (10)孝荘帝 元子攸 | (13)安定王 元朗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(8)宣武帝 元恪 | (追)武穆帝 元懐 | 清河王 元懌 | (僭/追)文景帝 元愉 | (僭)汝南王 元悦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)孝明帝 元詡 | 臨洮王 元宝暉 | (西1)文帝 元宝炬 | 清河王 元亶 | (14)孝武帝 元脩 | 馮翊公主 元氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(僭)孝明帝女児 元氏 | (僭)幼主 元釗 | (西2)廃帝 元欽 | (西3)恭帝 拓跋廓 | (東1)孝静帝 元善見 | (北周1)孝閔帝 宇文覚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
[編集]- 江上波夫 『騎馬民族国家』 中央公論社、1967年。