日本大衆党
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日本大衆党 | |
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成立年月日 | 1928年(昭和3年)12月20日[1][2] |
前身政党 |
日本労農党[2][3] 日本農民党[2][3] 無産大衆党[2][3] 九州民憲党[2][3] 中部民衆党[2][3] 信州大衆党[2][3] 島根自由民衆党[2][3] |
解散年月日 | 1930年(昭和5年)7月20日[2] |
解散理由 | 全国民衆党、無産政党戦線統一全国協議会との合同のため |
後継政党 | 全国大衆党 |
日本大衆党(にほんたいしゅうとう)は、昭和初期の日本の無産政党。
1928年(昭和3年)12月、日本農民党(平野力三)、日本労農党(三輪寿壮)、無産大衆党(鈴木茂三郎)の他、九州民憲党や中部民衆党など地方無産政党が合併して発足。高野岩三郎を委員長に、平野力三を書記長に選んだ。浅沼稲次郎や加藤勘十も参加。しかし党の主導権を巡る内紛が絶えず、 1929年(昭和4年)5月16日には左派の鈴木と右派の平野ら幹部5人を党の統制を紊乱したとして除名[4]さらに5月21日に10人を除名処分した[5]。同年12月15日の党大会で麻生久を執行委員長とした[6]が、1930年(昭和5年)7月、全国民衆党、無産政党戦線統一全国協議会と合同して全国大衆党となった。
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1044頁。ISBN 4-06-203994-X。
- ^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年9月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年9月18日閲覧。
- ^ 旧日農と無産大衆党の五幹部を除名『大阪毎日新聞』昭和4年5月17日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p504 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ さらに十人を除名『大阪毎日新聞』昭和4年5月22日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p505)
- ^ 党大会開く、除名問題で報告『東京朝日新聞』昭和4年12月16日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p505)