コンテンツにスキップ

日本鉱業佐賀関鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本鉱業佐賀関鉄道
路線総延長9.2 km
軌間762 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
国鉄日豊本線
STRq
幸崎駅
exSTR+r
0.0 日鉱幸崎駅
exBHF
日鉱本幸崎駅
exBHF
日鉱大平駅
exBHF
日鉱大志生木駅
exTUNNEL2
大志生木トンネル
exBHF
日鉱小志生木駅
exTUNNEL1
小志生木トンネル
exBHF
日鉱辛幸駅
exTUNNEL1
古宮トンネル
exBHF
日鉱古宮駅
exTUNNEL2
金山トンネル
exBHF
日鉱金山駅
exKRW+l exKRWgr
exSTR exKBHFe
9.2 日鉱佐賀関駅
exKBSTe
日本鉱業佐賀関製錬所

日本鉱業佐賀関鉄道(にほんこうぎょう さがのせきてつどう、通称 佐賀関線)は、かつて大分県北海部郡佐賀関町(現・大分市)の日鉱幸崎駅から日鉱佐賀関駅までを結んでいた、日本鉱業(日鉱、現・JX金属)が運営していた鉄道路線である。

太平洋戦争勃発により海上輸送が厳しくなったため佐賀関半島北岸に建設が進められた鉄道であったが、工事は難航し終戦後開業となり軍需輸送には間に合わなかった。開業から僅か17年の1963年(昭和38年)に廃止された。

廃線跡の大半は、地元の生活道路や遊歩道・サイクリングロード等として活かされている。

路線データ

[編集]
  • 路線距離(営業キロ):9.2km
  • 軌間:762mm
  • 駅数:9駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:なし(全線非電化
  • 閉塞方式
    • 交換可能駅:1(日鉱大志生木)

運行形態

[編集]

廃止直前は全線の所要が25 - 30分、区間列車含め20往復の本数が確保されていた。 大志生木から古宮にかけて日本鉱業の社宅があったため、通勤時の大志生木 - 佐賀関間はかなりの混雑だった。

当初、旅客・貨物とも蒸気機関車牽引で運行されていたが、1951年(昭和26年)には国鉄大隅線の前身の大隅鉄道カホ1形を国鉄買収時に編入した元ガソリン動車2両(1930年日本車輌本店製。払い下げ時は無動力の客車)にディーゼルエンジンを載せて再気動車化(ケコキハ510・511)し、同年に若松車輌で新車のディーゼルカーとしてケコキハ512を製作した。これにより旅客列車が気動車化された。またディーゼル機関車も導入されている。

列車には女性車掌が乗務しており、鉄道職員には珍しい茶色の制服を着用していた。

歴史

[編集]

駅一覧

[編集]

(駅名は廃止時点のもの)

日鉱幸崎駅 - 日鉱本幸崎駅(ほんこうざき) - 日鉱大平駅(おおひら) - 日鉱大志生木駅(おおじゅうき) - 日鉱小志生木駅(こじゅうき) - 日鉱辛幸駅(からこう) - 日鉱古宮駅(ふるみや) - 日鉱金山駅(かなやま) - 日鉱佐賀関駅

接続路線

[編集]

車両

[編集]

蒸気機関車

[編集]
ケ218形(ケ219)
1918年雨宮製作所製の車軸配置0-6-0(C)、12トン級タンク機関車。1945年3月入線、1950年廃車。
ケ800形(ケ800 - ケ802)
1930年若津鉄工所製の車軸配置2-4-2(1B1)、20トン級タンク機関車。1945年5月入線。ケ801は1949年、住友別子鉱山鉄道に譲渡。ケ800は1956年、ケ802は1953年廃車。
11, 14
11は1927年日立製作所製、14は1927年汽車製造製の、いずれも車軸配置0-6-0(C)、15トン級タンク機関車で、ケ801と交換で住友別子鉱山専用鉄道から譲り受けたもの。1953年廃車。

内燃機関車

[編集]
DB1
1953年3月若松車輌製、車軸配置B形の15トン級ディーゼル機関車。セミセンターキャブを持つ凸形機で、動軸はロッドで連結されている。廃止まで在籍。1965年、秋田県の日本鉱業釈迦内探鉱所に移籍。白沢駅側線で使用のため1067mmに改軌[3]
GB1, GB2
1935年加藤製作所製。精錬所内軌道から転用。8トン級のガソリン機関車。1956年借入認可。1960年返却。

気動車

[編集]
ケキハ510形(ケコキハ510, 511)
ケコキハ512

客車

[編集]
250形(ケコハ250, 256)
470形(ケコハ481, 487, 494(497), 500)
ホハフ1形(ケホハフ1, 2, 3, 5, 6)1929年東洋車輌住友別子鉱山鉄道より購入

貨車

[編集]
無蓋車
ケト100 - 134、ケト200 - 224、ケチ(ケホチ)10 - 12、ケチ(ケホチ)350 - 354、ケセ41, 43, 54, 55, 58, 59, 64, 86
タンク車
ケタ(ケホタサ)1, 2、ケタ(ケホタサ)3, 4、ケタム(ケホタム)5
有蓋車
ケワフ(ケホワフ30)

車両数の推移

[編集]
年度 蒸気機関車 内燃機関車 内燃動車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1948 5 8 76
1950 4 8 52
1954 1 1 3 6 6 42
1958 0 2 3 5 6 32
1960 1 3 5 1 2
  • 高井薫平『軽便追想』ネコパブリッシング、1997年、213頁

廃線後の状況

[編集]

1990年代初めまでは大部分が未舗装の生活道路として利用されていたが、土地区画整理事業により次第に姿を消している。特に日鉱幸崎 - 日鉱本幸崎は国道197号のバイパス道路建設とJR幸崎駅の専用線が撤去され宅地化されたことにより一気に痕跡を消して行った。逆に日鉱大平付近などは未舗装の生活道路やそのまま利用されている橋桁など廃線跡の情緒が残る風景を現在でも提供してくれる。

日鉱辛幸から日鉱金山にかけては、サイクリングロードとして整備されていたり、当時のトンネルがそのまま使用されていたりと、廃線跡がうまく再利用されている姿を確認することができる。なお、佐賀関線には4箇所のトンネルがあった。そのうち現在でも現役で使用されているのは大志生木トンネルと金山トンネルの2つで、蛍光灯の付け替えなど管理がなされ、地元の人達の利用も多い。残りの小志生木トンネルと古宮トンネルは完全にコンクリートブロックで塞がれてしまっている。

日鉱佐賀関駅は現在の大分バス佐賀関バスセンターにあたり、手前のカーブで旅客線と貨物線が分岐していた。貨物線はそのまま佐賀関駅の入口前(現在歩道となっている部分)を通り、佐賀関製錬所敷地内まで通じていた。1980年(昭和55年)頃に最後まで残っていた貨物線のレールが撤去され、周辺整備の前までは道路に割り込むように白いコンクリートの帯が製錬施設の中まで伸びて廃線跡であることを主張していたが、道路拡張の際に消滅した。

脚注

[編集]
  1. ^ 「鉄道省告示第86号」『官報』1933年3月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 岩堀春夫「専用線の機関車」『鉄道ファン』No.282

参考文献

[編集]
  • 鉄道ファン21号(1963年3月号) - 「消え行く路線をたづねて 日本鉱業佐賀関鉄道」
  • 鉄道ピクトリアル160号(1964年7月臨時増刊号) - 「日本鉱業・佐賀関鉄道」谷口良忠
  • 湯口徹『南の空、小さな列車』(下)プレスアイゼンバーン、1989年

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
  • 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」で提供している過去の航空写真(廃線跡)
    国鉄幸崎駅の北から東へ延びる道路が廃線跡。カーブから直線に入り舗装道路を横切った直後に日鉱幸崎駅跡。
    国鉄幸崎駅の北からやや北西寄りに延びる道を直進すると川の手前で行き止まる。行き止まり付近が濃硫酸の搬入施設。国鉄線からの引込線と留置されたタンク車も見える。
    西から国道197号の山側を並走し、一旦海側へ出た後に再び戻り、トンネルを通って小志生木へ抜ける
    西から日鉱小志生木までは上の写真と重複。写真上部中央の半島先端から出ている海岸線を東向きに延びる道が廃線跡。半島先端部分が小志生木トンネル出口
    西から海岸線に沿って伸びる。砂浜付近の画像は紛らわしいが、廃線跡は必ず岩場の壁伝いに走っている。
    国道197号のトンネル下付近で廃線跡もトンネルに入り、国道197号よりも山寄りに出る。
    国道九四フェリーが写っている港から見て順に「国道197号新線」「国道197号旧線」「廃線跡」の順に東へ道路が延びる。
    廃線跡に沿って金山トンネル西側に4つ並ぶ建物は日本鉱業の古宮社宅である。日鉱古宮駅跡。
    金山トンネル東側にある変則十字型の建物は製錬所病院。日鉱金山駅跡。
    再び国道197号よりも海側に移動し、佐賀関漁港(上浦港)に入ったところで旅客線(海側)と貨物線(山側)に分岐している。
  • 日本鉱業佐賀関線 - インターネットアーカイブ2002年10月30日のアーカイブ、2014年2月15日閲覧。
  • 佐賀関鉄道廃線跡を訪ねて - 2014年2月15日閲覧
  • 日本鉱業佐賀関鉄道跡歩きの一齣
  • 九州の私鉄入場券に関する考察 - 現役当時の佐賀関駅を写した絵葉書と日鉱小志生木駅の写真を掲載している