昌文君
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昌文君(しょうぶんくん、紀元前270年代[1] - 紀元前224年)は、中国戦国時代の秦の将軍または政治家。楚の頃襄王の公子という[1]。姓名は不明だが、戈の銘文によれば名は「顛」であり、即ち熊顛の可能性がある。
生涯
[編集]秦の人質であった兄の太子完が黄歇の機転で昭襄王に無断で楚に帰国した。激怒した昭襄王は黄歇の死を賭した態度に感服したが、代わりに太子完の人質時代に、頃襄王の側室がもうけた公子顛を人質として差し出したことで、丸く治まったという[1]。
秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと、甥[1]の昌平君(公子啓)と共に鎮圧した。この功績により、秦王政から昌文君に封じられ[2]、秦の左丞相となる。また、相国だった呂不韋は罷免された。
秦王政23年(紀元前224年)、4月、死去[3]。
『睡虎地秦簡』によると、楚の国人たちに昌文君を楚王に擁立する動向があったと記されている。