杉村惇
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杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 2001年8月13日) は、東京都出身の日本の洋画家である[1]。
人物
[編集]東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科卒。岡田三郎助(帝国美術院会員・第1回文化勲章受章)に学ぶ。本郷洋画研究所に通い、在学中の1930年(昭和5年)に第11回帝展(帝国美術院展覧会)に初入選するなどのあと、1933年(昭和8年)に第1回東北美術展(現河北美術展)で最高賞の河北賞を受賞。その後、戦後の1946年(昭和21年) - 1964年(昭和39年)塩竈で暮らし、数多くの油彩画を描く。
兄は歌人の杉村顕道(宮城県芸術協会理事長・宮城県教育文化功労者・国見台病院理事長)、甥は杉村隆(国立がんセンター名誉総長・日本学士院長・東邦大学名誉学長・鶴岡市名誉市民・武蔵野市名誉市民)
年譜
[編集]- 1907年(明治40年)9月7日- 現在の東京都新宿区(牛込区) 若松町で生まれる。
父は旧庄内藩士 杉村正謙で、戸山脳病院を経営。 - 1920年(大正9年)- 旧制高千穂中学校(現・高千穂大学)入学、はじめて油絵を描き始める
- 1927年(昭和2年)- 東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科入学し、3年より岡田三郎助教室で学ぶ
- 1932年(昭和7年)-東京美術学校 卒業
- 1933年(昭和8年)- 仙台市の姉の家へ寄寓 常盤木学園で一時教鞭を執る
- 1938年(昭和13年)- 結婚し、池袋モンパルナスに住む
- 1943年(昭和18年)- 文展無鑑査となる
- 1945年(昭和20年)5月- 東京大空襲で全作品と集めていたランプ等を焼失し、仙台市へ疎開する
- 1946年(昭和21年)から塩竈市に1965年まで居住し、塩竈の風景や魚などを描く
- 1951年(昭和26年) - 東北大学教育学部講師、翌年助教授
- 1963年(昭和38年) - 日展審査員
- 1964年(昭和39年)- 東北大学教育学部教授、日展会員、光風会評議員、兄・顕道らとともに宮城県芸術協会の設立に参加し、理事
- 1965年(昭和40年) - 塩竈市より仙台市に転居
- 1967年(昭和42年)- 宮城教育大学教授
- 1974年(昭和49年)- 宮城県教育文化功労者
- 1978年(昭和53年)- 日展評議員・日洋展常任委員
- 1983年(昭和58年)- 「古き雛」で日展文部大臣賞
- 1984年(昭和59年)- 河北文化賞・日展参与・ 宮城教育大学名誉教授
- 1989年(平成元年)- 仙台市特別市政功労者
- 1990年(平成2年)- 紺綬褒章
- 1996年(平成8年)- 仙台市名誉市民
- 1999年(平成11年)- 宮城県美術館で「杉村惇展」開催
- 2001年(平成13年) - 4月 せんだいメディアテークで「開館記念 名誉市民杉村惇作品展」開催
- 同年8月13日- 肺炎のため仙台市にて永眠
- 同年10月- 塩竈一ノ蔵ギャラリーで「市制施行60周年記念 塩竈と杉村惇作品展」開催
- 2014年(平成26年) - 宮城県塩竈市に「塩竈市杉村惇美術館」が開館[1]
受賞歴(主なもの)
[編集]- 1930年(昭和5年) 23歳在学中に「パンと帽子」で第11回帝展初入選
- 1932年(昭和7年) 東京美術学校卒業 卒業制作「花と婦人」など3点入選で、光風会展F氏奨励賞、第1回東北美術展(現河北美術展)「婦人像」他が入選・河北賞
- 1934年(昭和9年) 第2東北美術展に「ミシン」他が入選・河北賞
- 1949年(昭和24年) 「海近き部屋」で日展岡田賞
- 1950年(昭和25年) 「春近き河岸」で光風会展・特賞
- 1953年(昭和28年) 「石膏像」などで光風会で会員最高賞の光風相互賞
- 1961年(昭和36年) 「パンのある卓」で日展菊華賞
- 1983年(昭和58年) 「古き雛」で日展文部大臣賞
表彰等
[編集]顕彰施設
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 河北新報 ONLINE NEWS Archived 2014-11-25 at the Wayback Machine.
参考文献
[編集]関連する人物
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 塩竈市杉村惇美術館
- 洋画家・杉村惇さんの美術館、塩釜に開館 Archived 2014-11-25 at the Wayback Machine.