松平忠順
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保11年11月22日(1726年12月15日) |
死没 | 天明3年2月8日(1783年3月10日) |
改名 | 新十郎(幼名)、忠順 |
諡号 | 鳳斎 |
戒名 | 大量院殿智海徳真大居士 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 |
官位 | 従五位下・内膳正、伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行、若年寄 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 信濃上田藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父∶松平忠愛、母∶杉浦氏 |
兄弟 |
忠順、忠方、信敏、藤井忠成、信交、 亀次郎、忠亮、忠寄、藤井忠徹室、 板倉勝暁継室、広橋兼胤養女、 竹屋中癖室、向坂政興室、木村盛祥室、 久松定相室、木村盛祥室ら計27人 |
妻 |
井伊直定養女 波多氏、手塚氏、森田氏、八木氏、山本氏 |
子 |
忠済、為三郎、忠脩、池田輝名、 岡部重則室、結子 |
松平 忠順(まつだいら ただより)は、江戸時代中期の大名。信濃国上田藩3代藩主。江戸幕府の奏者番、寺社奉行、若年寄。官位は従五位下・内膳正、伊賀守。伊賀守系藤井松平家5代。
生涯
[編集]享保11年(1726年)11月22日、2代藩主・松平忠愛の長男として江戸で誕生した。
寛保元年(1741年)に従五位下・内膳正に叙位・任官する。寛延2年(1749年)8月2日、父の隠居で家督を譲られ、伊賀守に遷任する。
父と違って有能で、儒学を基礎とした積極的な藩政刷新を目指したが、父の時代に既に藩財政は破綻していたため、宝暦3年(1753年)に半知上納を行ない、宝暦9年(1759年)に倹約令を出している。しかし民政においては、かなり質の悪い役人が取り仕切って年貢増徴を行なっていたため、宝暦11年(1761年)12月に百姓一揆(上田騒動)が起こり、藩は百姓の年貢減免・役人罷免要求を認めざるを得なくなった。
宝暦13年(1763年)に奏者番に任じられ、明和元年(1764年)に寺社奉行、安永4年(1775年)に若年寄上席などを歴任した。天明3年(1783年)2月8日、江戸で死去した。享年58。跡を長男の忠済が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 松平忠愛(父)
- 杉浦氏 ー 側室(母)
正室
側室
- 波多氏
- 手塚氏
- 森田氏
- 八木氏
- 山本氏
子女
長男・忠済は家督を継ぎ、五男・池田輝名は6000石を領する大身旗本・池田喜生の養子となったが、家督相続前に早世した。他家に嫁いだ娘は2人いる。
脚注
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