松平斉韶
表示
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 享和3年5月5日(1803年6月23日) |
死没 | 慶応4年/明治元年9月8日(1868年10月23日) |
改名 | 攸三郎(幼名)、直韶(初名)、斉韶 |
別名 | 嵩翁(号) |
戒名 | 嵩嶽院韶空天瑞輝徳大居士 |
墓所 | 兵庫県明石市人丸町の長寿院 |
官位 | 従五位下左近衛将監、従四位下、左兵衛督、侍従、従四位上左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
藩 | 播磨明石藩主 |
氏族 | 越前松平家支流明石松平家 |
父母 | 松平直周、逸 |
兄弟 | 斉韶、直堅、直載、邦、誠、脩 |
妻 | 松平直恒娘季遠姫 |
子 |
慶憲、直正、直静、里子、渋谷教応室、 森忠儀正室ら 斉宣 |
松平 斉韶(まつだいら なりつぐ)は、江戸時代後期の大名。播磨国明石藩7代藩主。官位は従四位上左近衛権少将、左兵衛督。直良系越前松平家8代。
生涯
[編集]享和3年(1803年)、6代藩主・松平直周の次男として誕生。初名は直韶。のち、11代将軍・徳川家斉から偏諱を受け斉韶に改名した。
文化13年(1816年)、父の隠居に伴い家督を相続する。文政4年(1821年)に元服する。
天保11年(1840年)に隠居し、家督を養子・斉宣(徳川家斉の二十六男)に譲った。
慶応4年/明治元年(1868年)9月8日(慶応から明治への改元日)、死去。享年66。
官歴
[編集]※日付は旧暦
- 1815年(文化12年)12月16日、従五位下・左近衛将監に叙任。
- 1816年(文化13年)9月14日、家督相続し、明石藩主となる。
- 1821年(文政4年)12月16日、従四位下に昇叙し、左近衛将監如元。12月22日、左兵衛督に転任。
- 1829年(文政12年)12月16日、侍従に遷任し、左兵衛督兼任如元。
- 1837年(天保8年)3月9日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。左兵衛督兼任如元。
- 1840年(天保11年)2月26日、隠居。
以上[1]
系譜
[編集]フィクションにおける登場
[編集]1963年の映画『十三人の刺客』において、暴君・松平斉韶として登場することが知られている。ただし、同作に登場する松平斉韶は明石藩主でこそあるが、将軍の弟といった基本的な来歴は史実の斉韶と異なる。さらに、史実として松平斉韶には暴君と見なされるようなエピソードや、映画のネタ元となったような逸話も存在しない。ただし、将軍の弟という出自や、参勤交代中のトラブルといった逸話は、跡を継いだ松平斉宣に見られる。
2010年のリメイク版においても、登場する暴君の名は松平斉韶であるが、このリメイクに伴って刊行された小説版(谺雄一郎作)では、暴君の名を「斉宣」としている。
脚注
[編集]- ^ 児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵・諸侯年表』東京堂出版、1989年再版