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松平斉韶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平斉韶
時代 江戸時代後期
生誕 享和3年5月5日1803年6月23日
死没 慶応4年/明治元年9月8日1868年10月23日
改名 攸三郎(幼名)、直韶(初名)、斉韶
別名 嵩翁(号)
戒名 嵩嶽院韶空天瑞輝徳大居士
墓所 兵庫県明石市人丸町の長寿院
官位 従五位下左近衛将監従四位下左兵衛督侍従、従四位上左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
播磨明石藩
氏族 越前松平家支流明石松平家
父母 松平直周、逸
兄弟 斉韶直堅直載、邦、誠、脩
松平直恒娘季遠姫
慶憲直正直静、里子、渋谷教応室、
森忠儀正室ら
斉宣
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松平 斉韶(まつだいら なりつぐ)は、江戸時代後期の大名播磨国明石藩7代藩主。官位従四位上左近衛権少将左兵衛督。直良系越前松平家8代。

生涯

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享和3年(1803年)、6代藩主・松平直周の次男として誕生。初名は直韶。のち、11代将軍徳川家斉から偏諱を受け斉韶に改名した。

文化13年(1816年)、父の隠居に伴い家督を相続する。文政4年(1821年)に元服する。

天保11年(1840年)に隠居し、家督を養子・斉宣(徳川家斉の二十六男)に譲った。

慶応4年/明治元年(1868年)9月8日(慶応から明治への改元日)、死去。享年66。

官歴

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※日付は旧暦

  • 1815年(文化12年)12月16日、従五位下・左近衛将監に叙任。
  • 1816年(文化13年)9月14日、家督相続し、明石藩主となる。
  • 1821年文政4年)12月16日、従四位下に昇叙し、左近衛将監如元。12月22日、左兵衛督に転任。
  • 1829年(文政12年)12月16日、侍従に遷任し、左兵衛督兼任如元。
  • 1837年天保8年)3月9日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。左兵衛督兼任如元。
  • 1840年(天保11年)2月26日、隠居。

以上[1]

系譜

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フィクションにおける登場

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1963年の映画『十三人の刺客』において、暴君・松平斉韶として登場することが知られている。ただし、同作に登場する松平斉韶は明石藩主でこそあるが、将軍の弟といった基本的な来歴は史実の斉韶と異なる。さらに、史実として松平斉韶には暴君と見なされるようなエピソードや、映画のネタ元となったような逸話も存在しない。ただし、将軍の弟という出自や、参勤交代中のトラブルといった逸話は、跡を継いだ松平斉宣に見られる。

2010年のリメイク版においても、登場する暴君の名は松平斉韶であるが、このリメイクに伴って刊行された小説版(谺雄一郎作)では、暴君の名を「斉宣」としている。

脚注

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  1. ^ 児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵・諸侯年表』東京堂出版、1989年再版