松平資俊
表示
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 万治3年(1660年) |
死没 | 享保8年7月14日(1723年8月14日) |
改名 | 本庄資俊→松平資俊 |
別名 | 辰之助(通称) |
戒名 | 源徳院殿静誉善澄義海大居士 |
墓所 | 東京都足立区東伊興の法受寺 |
官位 | 従五位下、安芸守、従四位下、侍従、豊後守、伯耆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 常陸笠間藩主→遠江浜松藩主 |
氏族 | 本庄氏→本庄松平家 |
父母 | 父:本庄宗資、母:隠俊実の娘 |
妻 |
正室:佐野勝由の娘 側室:佐々木氏、森氏、川村氏 |
子 |
宗弥、宗長、宗胡、富田知徳(七男)、娘(鳥居忠瞭正室)、娘(松平義孝正室)、娘(松平久瑞正室) 養子:資訓 |
松平 資俊(まつだいら すけとし)は、江戸時代前期の旗本、のち大名。常陸笠間藩第2代藩主、遠江浜松藩初代藩主。本庄松平家2代。
生涯
[編集]万治3年(1660年)、笠間藩主・本庄宗資の次男として生まれる。貞享元年(1684年)10月10日、寄合旗本となる。元禄4年(1691年)12月28日に従五位下・安芸守に叙位・任官される。元禄12年(1699年)、父の死去により家督を継いで笠間藩主となる。元禄14年(1701年)12月18日に従四位下に昇叙され、元禄15年(1702年)2月19日に侍従に任官する。9月12日に備中において2万石を加増されて7万石となった上で、遠江浜松に移封された。
宝永2年(1705年)3月23日に第5代将軍・徳川綱吉より松平姓を与えられた。そして豊後守、伯耆守へと遷任している。享保8年(1723年)7月14日に死去した。享年64。家督は正室の弟の資訓が継いだ。
なお、目立った功績もないのにここまで異例の出世を遂げたのは、父・宗資が綱吉の生母・桂昌院の異父弟であり、縁者による引き立てがあったためである。