森田雷死久
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森田 雷死久(もりた らいしきゅう、1872年(明治5年)1月26日 - 1914年(大正3年)6月8日)は、日本の俳人、僧侶。愛媛県生まれ、本名は愛五郎、僧名は貫了[1]。
生涯
[編集]愛媛県伊予郡西高柳村(現在の松前町)に生まれる[1]。12歳で真言宗豊山派の長隆寺に入り修行、14歳で宝珠寺に移り、のち上京し京都仏教大学林に入学、権田雷斧の教えを受け、僧名を「貫了」とする[1]。帰郷後は松山市の常福寺住職となる。俳句は正岡子規の友人、武市幡松の叔父を縁に始め、ホトトギスに投句するも大蓮寺の夏行で河東碧梧桐と出会い傾倒、新傾向俳句を県下に広める活動に尽力する。しかし持病の喘息が悪化、42歳で早世[2]。
「環俗の辞」と題した書を真成寺の壁に書き残した。伊予市中央公民館に保管されている。住職を辞めた後、伊予梨の栽培普及を開始、伊予果物同業組合を結成、努力して活躍した。死後の1937年(昭和12年)に唐川地区は日本一の梨の産地となり、伊予梨の誕生となる。現在の「唐川びわ」の先駆けとなる[3]。
雷死久の俳号は自身の句「雷公の死して久しき旱かな」より。
代表句
[編集]愛媛県内で句碑となっている句を挙げる。
- 木芽日和慶事あるらし村人の(松山市)
- 足弱に施薬願わん秋の寺(松山市)
- 夏木立栗の花散る笠の上(伊予市)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 上田都史『近代俳人列伝』第1巻(永田書房)1986年