榎 (楢型駆逐艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1917年度[1] |
起工 | 1917年10月1日[1] |
進水 | 1918年3月5日[1] |
就役 | 1918年4月30日[1] |
その後 | 1930年6月1日掃海艇編入、第十掃海艇(二代)と改名[1] 1936年4月1日雑役船編入、船名を「麗女」と称す(非公式名)[1] 1940年4月1日廃駆逐艦第21号と仮称[2] 除籍後、船体は呉海軍工廠魚雷実験部防波堤となる[1] |
除籍 | 1940年[1] |
廃船 | 1940年[1] |
性能諸元(計画) | |
排水量 | 基準:770トン 常備:850トン |
全長 | 全長:290 ft 0 in (88.39 m)[注釈 1] 垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m)[3] |
全幅 | 25 ft 4 in (7.72 m)[注釈 1] |
吃水 | 7 ft 10 in (2.39 m)[注釈 1] |
機関 | 推進:2軸 x 730rpm 主機:ブラウン・カーチス式単式直結タービン 2基 出力:17,500馬力 ボイラー:ロ号艦本式缶 重油専焼2基、石炭重油混焼2基 |
速力 | 31.5ノット |
燃料 | 重油212トン、石炭98トン |
航続距離 | 3,000カイリ / 14ノット |
乗員 | 竣工時定員 112名[4] |
兵装 | 45口径三年式12cm単装砲3門 三年式機砲(6.5mm機銃) 2挺 45cm3連装魚雷発射管2基6門 |
搭載艇 | 4隻 |
榎(えのき)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、楢型駆逐艦の6番艦である。同名艦に橘型駆逐艦の「榎」があるため、こちらは「榎 (初代)」や「榎I」などと表記される。
艦歴
[編集]1917年(大正6年)10月1日、舞鶴海軍工廠で起工[5][6]。1918年(大正7年)3月5日午後3時進水[7]。同年4月29日竣工[8][注釈 2]。
1925年(大正14年)5月、北但馬地震の救援活動のため舞鶴港から急派、兵庫県津居山港沖合に碇泊。100人の陸戦隊が上陸して城崎町に向かった[9]。
1930年(昭和5年)6月1日、掃海艇に転籍、第十号掃海艇(二代)となる。1936年(昭和11年)4月1日、雑役船編入、船名を「麗女」(うるめ)と称す(非公式名)。1940年(昭和15年)除籍。同年4月1日廃駆逐艦第21号と仮称。その後、船体は呉海軍工廠魚雷実験部防波堤となる。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 駆逐艦長
- 山本松四 少佐:1918年3月20日[11] - 9月10日[12]
- 大久保義雄 大尉:1918年9月10日[13] -
- 千谷定衛 少佐:1918年12月1日 - 1920年11月20日
- 西川速水 少佐:1920年12月1日[14] - 1921年7月1日[15]
- 石井先知 少佐:1921年7月1日[15] - 12月1日[16]
- 次木亀作 少佐:1921年12月1日[16] - 1922年6月15日[17]
- 鈴木幸三 少佐:1922年6月15日 - 1923年1月20日
- 保村禎一 少佐:1923年1月20日[18] - 1924年2月5日[19]
- (心得)村瀬頼治 大尉:1924年2月5日[19] - 不詳
- 村瀬頼治 少佐:不詳 - 1924年12月1日[20]
- 津田源助 少佐:1924年12月1日[20] - 1926年2月1日[21]
- 藤田類太郎 少佐:1926年2月1日 - 1926年11月1日
- 山口常太郎 少佐:1926年11月1日[22] - 1928年12月10日[23]
- (兼)樋口通達 中佐:1928年12月10日[23] - 1929年7月20日[24]
- (兼)西岡茂泰 少佐:1929年7月20日 - 1929年11月1日
- 小沢三良 少佐:1929年11月1日[25] - 1930年6月1日[26]
- 掃海艇長
- 小沢三良 少佐:1930年6月1日[26] - 1930年12月1日[27]
- 野口照隆 大尉:1930年12月1日[27] - 1932年2月1日[28]
- (兼)有田貢 少佐:1932年2月1日[28] - 1932年4月1日[29]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c #昭和造船史1pp.788-789、6.駆逐艦及び水雷艇要目表では桃型と同じ水線長85.85m、垂線間長83.82m、最大幅7.74m、公試状態吃水2.36mとしている。また#日本駆逐艦史1992p.52では全長85.9mとしている。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.275では4月30日竣工となっている。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第7巻、299頁。
- ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料編「主要艦艇艦歴表」12頁。
- ^ #横須賀海軍工廠史3p.13。ただし楢の値として。
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.570-571『大正六年十二月二十八日(内令三二三) 海軍定員令中ノ通改正セラル 驅逐艦定員表其二ヲ附表ノ通改ム(附表略)』槇を追加、將校、機關將校6人、特務士官、准士官3人、下士24人、卒79人。
- ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1072-1073、昭和3年2月14日(内令43)、艦船要目公表範囲。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.275
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像80『大臣宛駆逐艦榎本日午後三時無事進水結了 三月五日 舞鎮長官』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦浦風、江風、製造(1)画像6『榎引渡結了 四月二十九日 舞鎮長官 椿竣工本日授受結了 四月三十日 呉鎮長官』
- ^ 「豊岡・城崎は焦土と化す、救援隊続々と到着」『大阪毎日新聞』1925年5月24日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp..239-240 毎日コミュニケーションズ 1994年)
- ^ 『官報』第1601号、大正6年12月3日。
- ^ a b c 『官報』第1688号、大正7年3月22日。
- ^ 「海軍辞令公報 大正7年9月」 アジア歴史資料センター Ref.C12070263200
- ^ 『官報』第1833号、大正7年9月11日。
- ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2676号、大正10年7月2日。
- ^ a b 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ 『官報』第2961号、大正11年6月16日。
- ^ 『官報』第3140号、大正12年1月22日。
- ^ a b 『官報』第3434号、大正13年2月6日。
- ^ a b 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
- ^ 『官報』第4030号、大正15年2月2日。
- ^ 『官報』第4258号、大正15年11月2日。
- ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ 『官報』第768号、昭和4年7月22日。
- ^ 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
- ^ a b 『官報』第1025号、昭和5年6月2日。
- ^ a b 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
- ^ a b 『官報』第1525号、昭和7年2月2日。
- ^ 『官報』第1575号、昭和7年4月2日。
参考文献
[編集]- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『世界の艦船増刊第34集 日本駆逐艦史』、海人社、1992年7月。
- (社)日本造船学会/編 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 横須賀海軍工廠/編 編『横須賀海軍工廠史(3)』 明治百年史叢書 第331巻、原書房、1983年8月(原著1935年)。ISBN 4-562-01380-X。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『大正7年 公文備考 巻20 艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造』。Ref.C08021104300。
- 『大正7年 公文備考 巻20 艦船1/駆逐艦浦風、江風、製造(1)』。Ref.C08021104400。