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永州路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モンゴル時代の江南投下領。永州路は中央に位置する。

永州路(えいしゅうろ)は、中国にかつて存在した大元ウルスの時代に現在の湖南省永州市一帯に設置された。治所は零陵県で、大元ウルスの行政上は湖広等処行中書省に属した。

華北平陽路(晋寧路)とともに、チンギス・カンの長男のジョチを始祖とするジョチ・ウルス投下領であった[1]

歴史

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唐代永州を前身とする。モンゴル帝国第5代皇帝セチェン・カアン(クビライ)によって南宋が平定されると、1276年至元13年)に安撫司が置かれ、更に1277年(至元14年)に永州路総管府が置かれた[2]

南宋の平定が完了するのと時を同じくして、北方では反クビライ派の王族が叛旗を翻し、クビライの子のノムガンを捕虜にするという事件が起こった(シリギの乱)。この頃、ジョチ・ウルスとクビライ家(大元ウルス)は関係が悪化しており、叛乱を起こしたシリギらは捕虜としたノムガンをジョチ・ウルスの下に送り、ノムガンは数年にわたって虜囚の身となった。「シリギの乱」自体はクビライの迅速な対応によって鎮圧されたものの、その残党が中央アジアのカイドゥの下に逃れ、カイドゥの勢力(カイドゥ・ウルス)は更に大規模なものとなった。それまでカイドゥ・ウルスと協力関係にあったジョチ・ウルスはその急速な拡大に危機感を覚え、方針を変更してノムガンをクビライの下に送り返し、大元ウルスとの友好関係を復活させた。そしてその直後、1281年(至元18年)にジョチ・ウルスは江南投下領として永州の6万戸を与えられた[3]。「シリギの乱」に関わった諸王の多くが江南投下領を与えられていないのに対し、ジョチ・ウルスが永州を与えられたのは、ノムガンを送り返したことで大元ウルスとの関係が良好になったためと考えられている[4]

1336年後至元2年)、時のジョチ・ウルス当主ウズベク・ハンは大元ウルスに使者を派遣し、それまで中止されていたジョチ・ウルス分地(投下領)の歳賜の輸送を再開させるよう要求した。しかし、既にこれを管轄する公的機関がなかったため、1337年(後至元3年)に総管府が設置された。1341年至正元年)にウズベク・ハンが亡くなりジャーニー・ベク・ハンが立つと、晋寧路の平陽・晋州と、永州路分の歳賦2400錠のジョチ・ウルスへの送付が1345年(至正5年)から始められた[5][6]

朱元璋明朝を建国すると、永州路は永州府と改められた。

管轄州県

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永州路には録事司、3県が設置されていた。

3県

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脚注

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  1. ^ 植松1997, p. 101,110.
  2. ^ 『元史』巻62志14地理志5,「永州路、下。唐改零陵郡為永州、宋因之。元至元十三年、置安撫司。十四年、改永州路総管府。戸五万五千六百六十六、口一十万五千八百六十四。領司一・県三。本路屯田一百三頃」
  3. ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「太祖長子朮赤大王位……江南戸鈔、至元十八年、分撥永州六万戸、計鈔二千四百錠」
  4. ^ 村岡1997, p. 18-19.
  5. ^ 『元史』巻117列伝4朮赤伝,「朮赤者、太祖長子也。……至元二年、月即別遣使来求分地歳賜、以賑給軍站、京師元無所領府治。三年、中書請置総管府。給正三品印。至正元年、月即別薨、子札尼別嗣。其位下旧賜平陽・晋州・永州分地、歳賦中統鈔二千四百錠、自至元五年己卯歳始給之」
  6. ^ 村岡2002,162-163頁
  7. ^ 『元史』巻62志14地理志5,「永州路……領司一・県三。本路屯田一百三頃。録事司。県三:零陵、上。倚郭。東安、上。祁陽。中」

参考文献

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  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101国立国会図書館書誌ID:000002623928 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊; 65(新装版3)〉、2004年。ISBN 4876985227国立国会図書館書誌ID:000007302776https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776 
  • 村岡倫「元代江南投下領とモンゴリアの遊牧集団」『龍谷紀要』第18巻第2号、龍谷大学、1997年3月、13-30頁、CRID 1573950401567310720ISSN 02890917