河文雄
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 富山県高岡市伏木湊町 |
生年月日 | 1924年10月7日 |
没年月日 | 1991年1月30日(66歳没) |
身長 体重 |
170 cm 60 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1951年 |
最終出場 | 1951年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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河 文雄(かわ ふみお、1924年10月7日 - 1991年1月30日[1])は富山県高岡市出身の元プロ野球選手。
来歴・人物
[編集]高岡中学校(現:富山県立高岡高等学校)では「富山球界一の投手」として話題になる。しかし、在籍中は高岡商業や富山商業の前に敗れ、甲子園には縁が無かった。最上級年においては、1941年の甲子園は戦争のために中断となり、富山県では予選すら行われなかった[2]。高岡中時代は、「嘆きのエース」とも呼ばれていた[2]。卒業後、満州に渡り、満鉄倶楽部に所属した[2]。戦後は、母の故郷である北海道に住み小樽野球協会に所属[2]。1948年には、第19回都市対抗野球大会に出場している[2]。この都市対抗野球では、小樽野球協会は初戦となった対西日本鉄道戦で敗れ敗退した。河はこの試合で敗戦投手となっている。小樽野球協会時代に、肘を故障している。
1950年に大阪タイガースに入団。翌1951年4月8日の対広島戦(広島県営)でプロ初勝利を完投で挙げる[2]。ところが、この後、右肘の故障が再発し、以後はあまり投げられなかった[2]。結局この1勝のみに終わり、同年限りで退団した。
翌1952年に小樽野球協会へ復帰[1]。その後は札幌市で開成油業を経営した[1]。
選手としての特徴
[編集]詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1951 | 阪神 | 11 | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 122 | 27.1 | 27 | 1 | 12 | -- | 3 | 3 | 0 | 0 | 17 | 16 | 5.14 | 1.43 |
通算:1年 | 11 | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 122 | 27.1 | 27 | 1 | 12 | -- | 3 | 3 | 0 | 0 | 17 | 16 | 5.14 | 1.43 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 28(1950年)
- 3(1951年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 河文雄 - NPB.jp 日本野球機構